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正法眼蔵 坐禅箴 8

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

そして、彫刻された龍にも、本当の龍にもそれぞれ価値がある。木に彫った龍も本物の龍もそれぞれ雲に乗り、雨を呼ぶところの力というものは持っている。この事は勉強してみなければわからない。自分自身よりはるか彼方に隔たったところの高尚なものをむやみやたらに大切にする必要はないし、あれは途轍もなく遠いことだから自分の役に立たないと言って、軽く見るという事も決して正しい態度ではない。遥か彼方にある尊いものが一体どういうものかという事を十分に勉強してみる必要がある。

身近なものは意味がない、価値がないと言って軽く考えてはならないし、身近なものだけが大事だという事で目先の事だけに一所懸命になるという事も本当の正しい態度ではない。身近なものには身近なものなりに十分経験をし納得がいくところまで勉強してみる必要がある。

外界の世界を見る場合にも、眼で見えるものは本ものかどうかわからないと言って軽蔑してはならないし、目に見えるものは絶対だというふうにばかり思い込んでも正しくない。耳に訴えるものを軽視し過ぎてもいけないし、耳に訴えるものを重視し過ぎてもいけない。目や耳というものをはっきりさせて、あらゆるものがよくわかるようにしておかなければならない。

※西嶋先生解説
ここで言っておられることも、常識的な線からはちょっと超えている。常識的な考え方というのはこういう考え方をしない。たとえば偽ものだけを大事にするという生き方もある。偽ものだけで人生終わっちゃう人もいる。ただ道元禅師は何を言われたかと言うと、偽ものもというもの、本ものというもの、それぞれに価値はあるんだけれども、一番大切な事は、自分自身が本ものになる事だ、という事をここでは言っておられるわけであります。自分自身が本ものになる事とは坐禅をするということ。  

私がこういう事を言うと、どうも西嶋の意見は常に我田引水であると言う事になるわけだけれども、しかし私は長年坐禅をやって来てこんないいものはないというふうに常にしみじみ感じるから、皆さんにも是非と言う事で勧めるわけ。坐禅と言うのは決して難しい事でも苦しい事でもない。ただ毎日やっていると、わけもなく健康になるし、気持ちが落ち着いてくるし、ものがよく見えてくる。 
 
普段、なぜものが見えないかと言うと、大抵はいろんなその他諸々に引きずられているから。そういうその他諸々がなくなってくると、ものが見えて来ると言う事が我々の人生にはあるわけ。坐禅はそういう点では非常に意味がある。今日、坐禅と言うものはそう高く評価されていない。だからやる人も非常に少ない。しかし実際にやってみると、坐禅ほど世の中の見方が素直になってくる修行法というものはない。
  
我々のものの見方と言うものは、特別に体験を積んだとか、知識が豊富とかと言う事よりも、余分なものがないと言う事の方が大事。素直に実態が見えるという事が非常に大切。そういう点では経験とか知識とかというものも勿論大事だけれども、そう言うものから脱け出して素直に実態を見ると言う事が、我々の人生がどういうものかと言う事を見ていく上において、あるいは商売の上で実態がどうなっているかと言う事を見ていく上で非常に大切だと言う事が言えると思う訳であります。
  
というのは、我々の住んでいる事態というのは時々刻々入れ替わっている。だから三年前、五年前の実態と今日とでは非常に入れ替わっている。その事を常に頭において、常に変わった事態についていくためには、色々なものにこだわっていたらよく見えてこない。様々のこだわりと言うものから脱け出した時に実態がよく見える、そういう事情があるわけです。
  
そのためには、何も考えずにジ-ッと坐っているという事が、一切のこだりから脱け出すと言う修行。そういう状態でものを見た時には、目の前のものがそのまま見えてくる。目の前のものがそのまま見えてくれば、人間、問題はない。ところが大抵はいろんな解釈をして、あるいはいろんな好き嫌いでものを見るから、そのまま見えないと言う問題があろうかと思います


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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