トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 7

馬祖道一禅師は南嶽懐譲禅師に仏道を学び、一対一で南嶽懐譲禅師から釈尊と同一の心境を伝承して以来、間断なく常に坐禅の修行を怠らなかった。ある時、馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師が質問した:お前は一所懸命坐禅をしている様だが、一体何をねらいにして坐禅をしているのか。

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
この質問を静かに十分考えてみる必要がある。その十分に考えてみなければならないという理由はどういうことかというと、坐禅をしていること以上に尊い何かねらいというものが坐禅にはあるのかどうか。坐禅以外に何か素晴らしいねらいがあって、その素晴らしいねらいにまだ到達していないという事なのかどうか。

坐禅に関連して、何も別にねらいを持ってはならないという事なのであろうか。いままさに坐禅をしている際に何か特別の目的が達成されたかどうかという事を質問しておられるのかどうか。この様な質問に関連して事細かに検討してみる必要がある。木に彫ったところの彫刻の龍をかわいがるよりは、もっと積極的に本当の龍をかわいがるべきである。

※西嶋先生解説  
「調龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし」と言うのは、中国にある有名な物語で、葉公と言う人が非常に龍の彫刻や龍の絵が好きで、龍の絵や龍の彫刻を自分の部屋の壁や柱に掛けたり机の上に乗せたりということで、とても大切にしていた。そうすると、天にいる本当の龍がそれを遥かに臨み見て、葉公という男は中々感心な男である。わしの彫刻を部屋に飾ったり、壁に掛けたりして大事にしておる。

もし本物の自分が葉公の所へ行ったならば、葉公は大いに喜んで大歓迎するであろうという事で、はるか天から下りて来て、葉公の家のそばまで行って窓からバ-ッと首を出した(笑)。そうすると、葉公は喜ぶどころか「アッ」と言って気絶してしまった。このことはどういうことかというと、人間は偽ものが好きだという事。新聞にも偽ものがたくさん書いてあるから新聞は面白いんです。

新聞の中に本当の事ばかり書いてあったら「なんだ、こんな中途半端なこと」という事でさっぱり面白くない。ところが世の中には色々な面白い人がいて、普通の人がやらないことを色々やるもんだから、それを新聞に書くと「わあ、こういう人もいたか、ああいう人もいたか、世の中は広い」というようなことでニュ-スとして面白いわけ。というのは、人間というのは偽ものが好きなんです。本物というのはあまり好きではない。

ここで彫刻の龍という言葉で何を言っておられるかというと、坐禅以外の事を彫龍と言っておられる。坐禅そのものを真龍と言っておられる。だから仏道修行にしても懺悔をするとか、念仏を唱えるとか、礼拝するとか、色々な仏道修行があるわけだけれども、一番肝心なのは坐禅だというのが道元禅師の主張である。

だから坐禅以外のいろいろな仏道修行は一所懸命大事にやるけれども、坐禅はどうかというと、「いやあ、あれはちょっと足が痛いから勘弁してください」「もうちょっと暇が出来たらやります」というふうなことが大体の実情であるわけです。ただ偽ものをかわいがるよりも本物をかわいがる方がはるかに人生は楽しいという事、この事を「調龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし」


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

FC2カウンタ-