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正法眼蔵 坐禅箴 6

薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。釈尊の教えを勉強したいと思うならば、坐禅によって真実を得ると言う事が例外なしに行われるところである。そしてその基本的な考え方は仏になりたい、悟りたいと言う気持ちを持たないで、ただ坐禅をするという事である。ただ坐禅をする境地は、仏になるとかならないとかという事とは別の状態であるから、法(宇宙秩序)がそのまま坐禅する人の状態として具体的に現れて来るのである。

現にどんないい事でも悪い事でも出来る生身の体を使って坐禅をしているという事は仏になりたい、悟りたいと言う境地を超越したものである。煩わしい様々の理屈を全部跳ね除けて考えてみるならば、坐っている事がまさに仏になった状態、悟った状態である。その様な坐禅の境地の中にまさに坐っている時点においては、それは無限の過去から無限の未来に向かっての永遠における一つの行いであるけれども、それと同時に仏の境地も十分にわかる立場であり、悪魔の境地も十分わかる立場である。

坐禅がうまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。今日は坐りたくないと思いながらイヤイヤ坐る場合もあるし今日はうまくいったと大いに張り切って坐る場合もあるけれども、そのいずれの場合においても、その坐禅の効果というものはほとんど無限の価値を持っている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐っていても、たとえば何か色々ゴチャゴチャとしちゃって、自分ではどうもハッキリしない、それでも坐禅の効果は・・・

先生
それはもう絶対の効果があります。それはやらなかった時に比較すればわかる。私なんかもそう。だから調子が悪かろうと悪くなかろうと、とにかく機械的に坐るという事を私は勧める訳です。人間いろんな調子がありますよ。そりゃもうどうにもこうにも調子の悪い時もあるけれども、それでもとにかく坐るという事。で、やるという事あるいはやったと言う事には、絶対の価値があるということ。

そういうもんですよ。だから、うまくいった、うまくいかないなんていう事も本人がそう感じているだけの事で、決して価値のない坐禅と言う様なものはありえない。道元禅師も「正法眼蔵」の中でしきりに、そんな事が解かるもんではないと言っている。そういう事になると思う。

質問
世間では仏とは「愛は惜しみなく与える」と考えているようですね。これは間違いですか。

先生
ええ、それは間違いだと思う。宗教というものの一つの考え方として、何でもかんでも与えるものが宗教、何でもかんでも自分を犠牲にして人のために図るのが宗教だという考え方も宗教の一種としてありますが、仏教はそういう主張をしておられないというのが実情だと思います。釈尊はそういう一切を与えるという考え方の危険さというものも承知しておられたとみることができます。

質問
たとえば「観音経」の中の念彼観音力、あれは外道(非仏教徒)の口ですか。

先生
観音さんというのは何かといいますと、生命の象徴ですよ。だから生命というものは我々がどんな苦しい境遇に立っても必ず助けに来てくれるというのが観音信仰の中心思想。それはどういうことかというと、たまたま包丁で手を切った、そうすると血がいっぱいわき出してくる、血が空気に触れると酸化して固まる、自然に血が止まる。で、そのまま二、三日おいてかさぶたが取れてみると、傷の方がほとんど治っている、これは実に不思議なことですよ。

だから我々がそういう生命の世界の中に生きておるというのが観音信仰の基本ですよ。だから我々がどんな苦しい境地の中に立っても生命が必ず救ってくれるというのが観音信仰であり、仏教思想の一つの中心をなしているわけ。「観音経」というのはそういう意味の信仰です。だから観音さんが偉くて何でもかんでも人に与えるという事まで言われておられるという事ではない。

質問
何でもかなえてくれると信者は考えているんでしょうね。

先生
それは生命というものはそういうものだという事ですよ。だから生命にはそういう我々を救ってくれる力があるという事ですね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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