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正法眼蔵 坐禅箴 4

薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

したがって坐禅をしている際の境地というのは、釈尊がものを考えた境地と同じではない。宇宙大の大きさでものを考えるのか、あるいは宇宙の立場でものを考えるのかと言う言葉だけでも表現出来ない。ものがわかったという境地で考えるのかと言うとそうでもない。ものを理解すると言う境地で考えたのと同じかと言うと別のものである。

この様に薬山惟厳禅師は坐禅の境地を表現されたのであるけれども、この様な表現と言うものを釈尊以来代々の祖師方によって伝承してこられた結果、薬山禅師の代になるまで三十六代の祖師方が一系に連なっている。また薬山惟厳禅師から代々の祖師方を時代をさかのぼって数えていくならば、三十六代の先に釈尊がおられる。

この様に釈尊から数えて三十六代、あるいは薬山惟厳禅師から数えて釈尊まで三十六代の伝統の中で、常に考えないと言う境地で坐禅をするという事が行われて来たのである。ところが最近、愚かな人々あるいは根拠のない主張をする人々が言うには、「坐禅をし修行をするという事は、気持ちの上での落ち着きが得られるならばそれで目的達成である。そういう境地が平穏な境地であり坐禅の目的である 」と。

この考え方は小乗仏教(釈尊が亡くなってから、百年ないし二百年位たった時代に生まれた)の様々な理論を主張した学者の考え方にさえ及ばず、仏教を離れている人々の考え方よりも劣っている。 どうして釈尊の教えを学んでいる人々と言う事が出来よう。現在でも偉大な宋の国においてさえ、この様な考え方で坐禅の修行をしている人が多い。釈尊以来たくさんの祖師方によって伝えられて来た教えと言うものが、はなはだしく荒れてしまった状態は悲しい事である。



              ―西嶋生の話―
    --つづき

「中道」の教えは、人生経験が浅いうちはなかなか本当だという事が解かってこない。ただ人生というものをいろんな面で経験していくと、人のためも大事だけれども、自分のためも大事だ、というふうなお互いの相互関係によってこの世の中は成り立っているということに気がついてくる訳であります。

釈尊はそういう現実をよく見ておられたから中道を説かれたと、そういうふうに言う事が出来ると思います。「中道」というのは、心と物の中間、それが我々の住んでいる世界と言う事でもあると同時に「自分と他人と両方を考えて生きるというのが中道だ」と言う事にもなる訳であります。

例えば商売の点について考えてみるならば、お得意さんのためを考えずに、自分の所さえ儲かればいいと言う商売をしていると、お得意さんの数がどんどん減っていってしまう。そうすると自分の商売そのものも思わしくなくなる、と言う事があるわけであります。自分のところの利益も大事だけれども、お得意さんの利益も大事だと言う形で考えていかないと商売一つ取ってみてもなかなか発展しない、とこの様な問題がある訳であります。

ただ普通、目先だけの事を考えると、お得意さんに多少損をかけてもこっちが儲かればいいと言う形で商売が行われていく場合もある訳でありますが、長い眼で見ると、どうも商売のやり方として本当に適合しているのかどうかと言うふうな問題があるわけであります。
       つづく--
  

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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