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正法眼蔵 坐禅箴 3

薬山惟厳禅師と弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

この僧の質問に対して、薬山惟厳禅師は「究極的には考える事ではない」と言われた。坐禅の境地を説明する場合に、この「考える事ではない」と言う言葉を使用する事は薬山禅師の明晰さの現れである。そして坐禅の境地と言うものに関連して「考えないと言う境地」を考える場合は、例外なしに「考える事ではない」と言う言葉を使用せざるを得ないのである。

この考えないと言う境地というものに実際に自分が身や心を置くならば、誰だかわからないけれども、誰かがそこで坐禅をしている、考えることではない境地にしたっている誰かがいるという実感を持つのであり、「誰だ」という言葉で言う事の出来ない誰かが、自分と言うものを保持してジ-ッと坐禅をしているのである。

坐禅の境地は、やはり自分自身が坐っていると言う事は否定出来ないとしても、ものを考えていると言う事だけが坐禅の全てではない。ジ-ツと動かずに坐っている境地そのものを、具体的に余すところなく現実のものとして現すという状態でもあるのである。我々は坐禅の境地というものを動かない不動の状態と表現しているけれども、その動かない不動の状態というものは、現に我々が体と心を使って実際に体験するだけの境地であって、それを、その中身が一体どういうものであろうかと考え様としても考えきれるものではない。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

中道と言う言葉の意味としては、古代インドの状況に当てはめて考えてみるならば、古くから伝わっているバラモン教の様な精神的なものを中心とした教えも正しくないけれども、その反面、当時の思想家(六師外道)の主張していた様な倫理道徳を否定する考え方も正しくない、というところに基本的な出発点がある。

この「中道」と言う教えは、なかなか理解が難しい面があると思います。私も若い頃は、この中道と言う思想がよく解からなかった。若い時というのは、極端な方がいいと思った。人間は何でも徹底すればいいんだ、というふうに考えていたために、中途半端のところがよろしいと言う教えがどうしてもよく分からなかった。どうも生ぬるくて本当かどうかわからんと言う気がしていたわけでありますが、長年この世の中に生きていて古ダヌキになってくると「なるほど、中道と言う教えが大事だ」と言う事に気がついてきた訳であります。  
  
なぜ中道と言う教えが必要かと言いますと、我々の生きている世界と言うのは中途半端な世界、こう言う事があると思います。我々は普通頭でものを考えるから、頭でものを考える時には極端なものを基準にして、いいとか悪いとかと言う事を考えるわけであります。だから頭でものを考える限り、どんな極端な事も考える事が出来る。
  
我々は大抵そう言う極端なものが正しくて、そう言う極端なところに行き着かないと幸福になれないという考え方をする訳でありますが、我々の人生というものを見直してみると、我々の人生そのものが決して極端なものではない。むしろ極端なものから離れたちょうどその真ん中にあるのが我々の人生だ、という事がある訳であります。だからそう言う人生を生きていく上においては、極端なものに走ってはならない、と言う事が非常に貴重な教えとして出て来るわけであります。
  
ところが、我々の社会においては、そういう中途半端な考え方はほとんど人気がない。だから新聞などでも、極端な例でないと新聞のタネにならない。だから、金欲しさに子供を誘惑して殺してしまったというふうなことは立派な新聞ダネになる。そうかと思うと、自分をまったく犠牲にして人の為に尽くした、と言うようなことも新聞ダネになる。ところが、人のためにも少しは役立ったし、自分のためにも少し努力したと言う中途半端な形と言うのは新聞ダネにならない。それは世間一般のあり方だから。ただそういう世間一般のあり方と言うものが本当の生き方だ、と言う事を釈尊は主張された。

                   つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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