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正法眼蔵 大悟 18

米胡禅師の弟子と仰山慧寂禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

しかも仰山禅師の回答が「悟りと言うものはないわけではないけれども、いくら悟ったといってみたところで過去の事も心配になる、未来の事も心配になると言うのが実情だ」と言われたということは、過去の事を心配し、未来の事を心配するのも、悟りの中の出来事だと言われているのである。

ここで仰山禅師が、自分の考えが二つに分かれてどっちをとったらいいかわからないような状態であると言っておられるけれども、そういう状態もまた悟りに変わると言っているのか、またはそう言う状態が悟りを得た状態だと言っているのか、あるいは悟りと言うものがわが身にすでに具わっていると言っている意味にも解釈できる。

ここで「悟りになる」とか「悟りが来る」とか言っているけれども、いずれも真実と一体になった我々自身の状態を言っているに過ぎない。この言葉の意味は、考え方が二つに分かれてどちらをとったらいいか解からないと言う様な状態を残念に思っている、と言う表現である。しかし、実はそんな判断と言うものは、自分自身の勝手な反省であって、自分の頭が二つの考え方に分かれて、どちらをしたらいいかと言う様な状態そのものも、本来は現実にはないと言う事が実態であると言う事を言っておられるに他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問     
「万葉集」なんか読みますと、相聞という男女関係の歌を詠んだのが一番いいですね。挽歌とか雑歌とかいろいろと分類がある中でも相聞歌が一番、まあ少なくとも私には訴えるものがあるんでありますがね。恋愛を生きがいにしてきた人が過去多かったんでしょうね。

先生
どうかなあ、そうも言い切れないだろう。というのは、恋愛を非常に尊重し始めたのは、やはり西洋文明の一つの影響があると思いますよ。それで、そういうものを尊重する時代のきっかけは,やっぱり近世のルネッサンス以降ですよね。ルネッサンス以降なぜそういう事を尊重するようになったかと言えば、やっぱり生産力が上がったからですよ。人間が飲み食いをそう心配しなくても生きていけるようになった時代以降は、それ以上のゆとりが出てきたという事であってね。

だからそういう点では、人間が少しましになった、まともになったという事の表れだというふうに見てもいいわけです。人間の歴史ってのはそういうもんですよ。だからルネッサンスでああいう沢山の絵画や彫刻が生まれたというふうなことも、そういう生産力が上がった、経済生活が向上したという事が裏にあるわけだし、そういう経済生活を背景にして、人間の愛情問題もある程度自由に行えるようになったという事である。

ただそれがもう100パ-セント全部許されるようになったかというと、どうもそうはいかないし、今日の状態でもまだそこまではいっていない。日本の国なんかだいぶいい方には来ているけれども、そうかといって、東南アジアで同じような人間が日本の国民と同じような境遇に置かれているかというと、中々そうはいかない。

私の独り言。
女、子供が泣いている様な国は決して立派な国ではありません。そういう目で世界の国々を見る事はとても大切なことです、と先生に教えていただきました。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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