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正法眼蔵 大悟 13

華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで休静禅師が鏡が割れた場合とか木から花が落ちた場合とかと言う言葉を使っているけれども、その使っていることの意味を取り上げて、大悟(真実を得た境地)の人が逆に迷った時のことを具体的に現実に味わって見るべきである。これは大悟ということは仏(真実を得た人)になることだと言い、逆に迷うということは凡人と同じような状況になることだと言っているように受け取れる。

しかしながら、逆に大悟の状況からまた凡人に還るという表現をし、本来の境地からまた凡人に逆戻りするというふうな言い方もあり、まさにそのことであろうと学ぶべきではない。この様な考え方の人は、悟った境地を無理に破って凡人になるというふうに言う。

休静禅師の考え方は、「悟りが崩壊する」とは言っていない。「悟りがなくなってしまう」とも言っていない。「迷いが別に何処からかやって来る」とも言ってはいないのである。ここで言われている「悟る」とか「さらに迷う」とかという境地というものは、いずれも、とてつもなく大きな規模のものであって、人間の浅はかな智慧でそれがすっかりつかまえられるというものではない。

悟るという事も、迷うという事も非常に大きな規模のものである。悟るということを邪魔できるような迷いというものはない。また逆に、悟ると言う事を二つ三つと何回も重ね合わせて、小さな迷いというもののその半分をつくると言うふうな事情でもある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は「仏教は変わらないものを勉強する」と言いましたが、仏教には「諸行無常」と言って常に変わるという教えもあります。その辺はどういうふうに・・・。
  
先生
だからその変わらないものは固定して動かないという事ではなくて、我々の生きている人生そのものが、瞬間瞬間が人生なんだから、その瞬間瞬間の人生と言うのは当然変わっていく。しかし、原則というものは何千年たとうと変わらないという考え方ですよ。

質問
今の場面とさっきの場面とこれから起こるだろうとされている場面とは、それぞれが独立して切り離されてると、そういう捉え方の「いまのいま」と言う事だけで。それが変わらないと・・・。

先生
そうです、そういう捉え方も含まれています。だから変わるとか変わらないと言う問題も、四諦(四段階の考え方)で見ていく必要があるわけです。
1・苦諦の考え方
理想主義的な立場からすると、真理は永遠だという事です。
2・集諦の考え方
物の立場から見ると常に変化し、常に壊れるのであり、永遠なんていう事は抽象的なエネルギ-については言えるとしても、個々の事物についてはありえないという事です。
3・滅諦の考え方
現在の瞬間しかないのだから、常に変化しているものであって、変わらないという事は絶対にありえない。
4・道諦の考え方
坐禅の境地だから、2500年前の釈尊の坐禅と我々の坐禅は少しも変わらない。何千年たとうと何万年たとうと、坐禅は坐禅だと言う捉え方もできる。
      
だから仏教の立場からしますと、一方的に「変わるものだ」と言う捉え方もしないし「変わらないものだ」と言う捉え方もしない訳です。ただ世間でものを考える場合には、「変わるものだ」という事で突っ張る人と「変わらないものだ」と言う事だけで突っ張る人と両方あるわけです。で、両方が相手の立場を理解しないと言うのが普通の立場です。そうすると、どこかでケンカになってしまうという事があるわけです。

釈尊が説かれたのは、この世のあり方とは非常に複雑で、変わらない面と変わる面と両方あるんだという事です。その事がしっかりわかってこないと、我々がどんな世界に住んでいるかわからないという事を言われた。
   

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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