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正法眼蔵 大悟 12

華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで説いている説話はそのような意味ではない。「悟った境地の人がさらに迷った時の様子は、どんなものでありましょうか」と質問しているのであるから「まさに迷っている瞬間は、一体どういうものでしょうか、そして、一度悟った人がまた迷いの中に入り込んでしまった状態は一体どういうものでしょうか」と言う質問をしているのである。

この様な時点においてどの様な言葉が言い得るかと言うならば、割れた鏡は二度と映す事はないし、木から落ちた花がもう一度木に戻る事はありえない。このことは迷っている瞬間には、この様であって差し支えないではないかと言っておられるのである。現実の世界の有様と言うものは、花が散ると言う状況は花が散ると言う状況以外の何ものでもないのであるから、日常生活の一所懸命の努力によって百丈ほどの高さにある竿の先端に上っていく様な場面であったとしても、花が落ちると言う事態に変わりはない。

また鏡が割れたまさにそのに瞬間においては、その時点においてどの様に生き生きとした努力が現実に行われているとしても、やはり他のものを映すことの出来ない状態には変わりないのであって、その事を言葉でいうならば、確かにものを映す力は失われているけれども、その様な状況でありながら、しかも一所懸命の努力があるという点では、他のものを照らし、他のものの姿を映していると言う事でもあろう。



          ― 西嶋先生にある人が質問した―

質問
「聖書」のマタイ伝に黄金律と言うのがあります。自分のほしいものを相手に上げなさいと言う・・・。道元禅師はそういった点は、どういうふうにお考えなんでしょうか。

先生
人間と人間との間柄というのは、譲り合いと言うか、分け合いと言うか、そういう分配の問題だという考え方が仏教にはあると思います。つまり、自分を0にして相手に100やれと言う思想は仏教にはないんです。50と50で分けるとか、40と60で分けるとか、20と80で分けるとか分配の問題はある。人間と人間との間柄は分配の問題だという考え方、それが「法」だと言う考え方はありますね。だから自分を0にして、相手に100をやれと言う思想と言うのは仏教思想にはないんです。
   
普通の宗教にはよくそれがあるんですよ。自分を0にして、相手に100をやりなさいと言う・・・。釈尊がどう言う事を言われたかというと「そんな事をしたら生きていられない」とこう言う事ですよ(笑)。だから仮に相手に99%やって、自分の1%は残さないと自分の生命が維持できない、そういう現実がある。「法」というのは何かと言うと、そういう「現実」と言う事なんですよ。

そういう否定する事の出来ない現実をしっかりと把まないと、自分にできもしない様な事を「やりなさい、やりなさい」と言って、人に勧める様な結果になる恐れがあると言う事も釈尊の教えの中には含まれているわけです。だから釈尊の教えと言うのは、非常に実践的な教えなんです。自分でやってみてやれるかやれないかによって、人間はどうしなければならないかを決めていく事が仏道というものの基礎にあるわけです。

仏教というのは非常に道義的、あるいは行動を大切にする教えだと言うのはそういう事にあるわけです。自分でやってみてやれる事とやれない事の判断をつけながら、どうやるべきかと言う事を考えていく立場が仏教にはあります。だからそういう点からすると、人と人との関係についても、どういう比率で分けるかと言う問題であって、自分をゼロにする事が最高なんだと言う思想は仏教思想にはない。そこが大事なところです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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