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正法眼蔵 神通 29

百丈大智禅師が言われた。

我々は、眼や耳や鼻や舌で様々の刺激を味わうけれども、それらの刺激に対して貪りを持たず執着しないならば、このような人を四行の詩句を拝受し、それを保持している人、仏道修行における四段階の成果をすでに把握した人と名付ける。我々は六種類の感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通して外界の刺激を受け入れているけれども、その六種類の感覚器官がいずれも執着を持たないことを六種類の神秘的な働きと名付ける。

また別の言葉で言うならば、我々の住んでいる世界には、頭に中で考えて「こうありたい、ああありたい」という理想の世界もあるし、また感覚で捉えることのできる物質的な世界というものもあるけれども、それらの世界の一切のものに束縛されないと同時に、認識や理解というものに素直についていくという事を神秘的な働きと呼ぶ。

しかしさらに、このような神秘的な働きというものに執着しない、固執しないという事を神秘的な働きというものを全部超越してしまった立場という。そのような神秘的な働きにさえ執着しない仏道修行者というものはとらえどころがない。このような人は仏以上の境地に立った人であるし、こういう人はいくら考えようとしてもなかなか考えることのできない人であるし、それは自分自身をしっかりつかんだ人である。



              ―西嶋先生の話―
       --つづき

四番目の考え方の一番基準になる姿というものが坐禅という事になるわけであります。だから坐禅をやっている時には我々自身が法の中に入り込んで法と一体になっているという事が言えるわけであります。そういう法と一体になった時間を持つことによって自分の体全体、心全体で法を感じ取ることができる。法というのは理屈でも何でもない、釈尊の教えというふうな抽象的な捉え方ではなしに、我々の体、心の実感という事になる。

そういう実感というものが我々の住んでいる世界の全ての中に入っているという事から考えていきますと、日常生活をどう送ったらいいかという事は、坐禅をした時の体の実感、心の実感を基準にして生きればいい、そういう形で、法と一体になって生きるところに最高の人生があるという捉え方ができるわけであります。

法というのは、人生におけるレ-ルという事も言えるわけです。レ-ルを外れる自由は我々にはあるわけです。レ-ルを外れてあっちにぶつかり、こっちにぶつかり、石だらけの道をどうも動きが取れないで「苦しい、苦しい」「こんな世の中は早く終わりにしたい」という気持ちになって苦労する自由もある。人間は自分自身で苦労をしょい込む自由はいくらも持っている。自分が何をするかによって、人生も開け得るという事が言えるわけです。

その点では「法」というものを身につけて、「法」に従って生きるという事が、各人にとって最高の人生だ、最高の幸福だという事もまた言えるわけでありまして、そのことを釈尊は説かれた。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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