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正法眼蔵 大悟 11

華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。

「仏道修行をして悟りというものをしっかりと把んだ境地の人が、迷ってしまった場合にはどうなりますか」という僧侶の質問に対して、休静禅師が答えて言われるには「割れた鏡が姿を映すという事はないし、木から落ちた花がもう一度木に戻る事はない」と言われた。この休静禅師の教えというものは、鏡が割れたその瞬間のことを言っておられるのである。まだ鏡が割れてもいない時点において、しなくてもいい心配をして、もし仮に鏡が割れたらどうなりましょうか、という事を考えてみても、それは必ずしも妥当ではない。

※西嶋先生解説
こういう例というのは我々の日常生活において非常に多い。災害が来ないうちから「災害が来たならばどうなりますか」というふうなことで大いに心配していることは世間に多い。それで一人の人が心配すると、心配している方が正しいと思う。「あの人があれだけ心配しているんだから、私も心配しなきゃならん」というようなことになるわけだけれども。

人生というのは今が大事だ。今災難が来ておらないのに、「もし災難が来たらどうしましょう」というようなことを心配しておってもしょうがない。現に不景気がそう大したこともないのに、「さらに不景気がひどくなったらどうしましょう」ってなことで心配してみても…。評論家はそういう事で一所懸命いろんな論議をするかもしれないけれども、現実の経済生活を生きている人間は、今日の商売をどうするかという事だけでしかない。

「三か月後にどうなりますか」とか「半年先にどうなりますか」そんなことはどうでもいい。今日一所懸命やって、今日やれるだけの最大限の努力をしようという事に尽きるわけです。これは商売だけの事ではない、我々の人生、我々の生活、すべてがそうだ。

道元禅師の注釈に戻ります。
今ここで華厳休静禅師が言っておられる言葉の意味は、一度真実を得た境地の人が、鏡に譬えるならば、他のものの姿をもう一度映すことはないと言い、また真実を得た境地の人が、もう一度元の状態に戻ることはあり得ないと主張しているのだと人々は理解するであろう。しかしながら、その様な学び方というものはこの言葉について学ぶ所以ではない。

もしこの様な意味にこの休静禅師の言葉を解するならば、別の言葉で「悟った人の日常生活の様子は一体どんなものでありましょうか」と言う質問のほうが、この聞きたい事の質問には合致している。そしてこの質問に対する回答としては「悟った人と言えども、また迷う事はあるぞ」と返事をすれば、それで足りるであろう。


             
           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お釈迦様は大慈大悲の気持ちがあったから非常に悩まれて大衆を救済しようとなすったのですが、やっぱり我々にもその様な気持ちがある様な気が・・・。

先生
あります。人間と言うのはそういうもんなんです。人が困っていれば、とにかく助けてやろうと言う気持ちが自然に出てきてしまう。理性的に考えて「損だからやめておこう」と言うのは、後から教育で教わったわけ(笑)。教育で教わらなければ「可愛そうだから助けましょう」と言う事がどうしても出て来るわけです。

教育の要素の中には損得を教えると言う大事な要素もありますから、そういう教育を受けて「ここまでやっちゃ損だからこの辺で踏みとどまろう」と言う様な事も頭にちゃんと入っているけれども、本質的には非常に高貴なものですよ人間と言うのは。
    
質問
それがあったから、人間と言うのは栄えてきた様な気が私はするんです。

先生
それはあると思いますね。そう言うものが文化をつくってきたと思いますよ。学者の働きにしても、これをやったらば本が売れていくら儲かるとか、そんな事では学問自身がやれない訳ですよ、おかしくて。だからとにかく調べたい、勉強してみたいと言う事で学者だって一所懸命やっている訳だから。それは商売だって何の仕事だってみんな同じです。

だからそういう点では、我々のやっていること事態が非常に尊いものだという事、これはいえると思います。各人が誰でも非常に自信を持っていいと思うんです。釈尊は「自信を持て」と言う事をしきりに言われた訳ですね。「天上天下唯我独尊」と言う事は釈尊ご自身だけの事ではない、人間誰でもたった一人しかいないんだ。この宇宙に自分と言うものはたった一人しかいないんだ、と言う事実に気が付く必要があるという事を言われたわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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