正法眼蔵 大悟 10
華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。
悟る(真実を得る)という事はどう言う事かと言うと、悪い事は悪いとはっきりわかる事である。迷うと言う事をまた別の言葉でいうならば、自分自身の実態と言うものをありのままに認めると言う事でもある。あり余った所で、さらにほんの僅かなものを付け加えると言う事が、悟ると言う事の状況であろうし、物が足りなくなって、ほんの僅かでも欲しいと言う状況のところで、ほんの僅かながら削られるという事が、逆に迷う事の実情であろう。
そうしてみると、ここで華厳休静禅師が言われている、悟った後に迷うという状況を、わからないながらも一所懸命手探りで見つけ回ってやっと把まえた、やっとその状況がわかったというところで、初めて真実を得た境地の人とばったりめぐり合うであろう。
この様な立場から、現在の自分自身が悟った後さらに迷っている状態なのか、あるいは迷いとは無関係の状態なのか、その点を細かく点検して、一体どちらが自分の実情であるかと言う事をしっかりと捉えるべきである。そのような努力をすることが、直接釈尊にお目にかかるというである。
※西嶋先生解説
ここで言っておられる事は、悟りとか、迷いとかというものに関連して、結局、現実をありのままに見る事が出来るか、出来ないかと言う事。あるいは、自分自身の実態をありのままに認める事が出来るかと言う事が大悟であり、却迷であると言っておられるわけであります。
―西嶋先生にある人が質問した―
--つづき
質問
よく「生活の態度としては貸しで行け」という主義がありますね。「借りでいってはいけない、貸しで行け」って。それをいま正面に出して言ってる人がいるんです。
先生
そういう人もあるかも知らんけど、仏道は貸し借りなしですね。「貸しで行け」なんてのは仏道思想じゃないね、そりゃ。(笑)
質問
よっぽどうぬぼれてるわけでしょ。
先生
それがあると思う。貸せるもんじゃないんですよ、人間のあり方として。借りたり貸したりで、各人が貸し借りなしですよ。現実の問題は。
質問
借りちゃうじゃありませんか、その貸す人の前に行くと。
先生
借りておいて一向に差し支えないんですよ。「貸します、貸します」と言ったら、「ハイ、お借りします」というんで。
質問
それじゃ頭上がんないですね。(笑)
先生
いや、だけど自分で借りたくて頭を下げて借りたんじゃなくて、相手が「貸したい、貸したい」と言ったから「じゃ、借りてあげましょう」というふうに言ったんだから、頭が上がらない必要はない。
質問
(笑いながら)そういう事で悩まなきゃなんないんです。年取ると。
先生
だから貸し借りなしというのが本来の人間の姿です。それで貸そうなんて思ってたってなかなか貸せないし、借りようと思ったってなかなか借りることは不可能だしね。そういうものが人間と人間との関係だと思いますよ。ところがえてして「あいつにこれだけやったのに、恩を仇で返された」なんてよく文句を言う人がいるけど、恩を借りたとか貸したとかというふうなことは、人間が勝手に頭の中で考えているだけの事で、法の世界というのは別の実態としてあるわけです。
質問
どうも失礼しました。あんまり俗っぽいことを伺いまして・・・。
先生
いやいや、そういう問題の中に仏道というのははっきりあると思いますよね。だからそういう問題をどう考えていくかというところまで掘り下げていかないと、仏教の教えというのは本当に生きてこないですよ。そういうところまで仏教というのをしみ込ませていくと、このくらい貴重な教えはないですよ。
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悟る(真実を得る)という事はどう言う事かと言うと、悪い事は悪いとはっきりわかる事である。迷うと言う事をまた別の言葉でいうならば、自分自身の実態と言うものをありのままに認めると言う事でもある。あり余った所で、さらにほんの僅かなものを付け加えると言う事が、悟ると言う事の状況であろうし、物が足りなくなって、ほんの僅かでも欲しいと言う状況のところで、ほんの僅かながら削られるという事が、逆に迷う事の実情であろう。
そうしてみると、ここで華厳休静禅師が言われている、悟った後に迷うという状況を、わからないながらも一所懸命手探りで見つけ回ってやっと把まえた、やっとその状況がわかったというところで、初めて真実を得た境地の人とばったりめぐり合うであろう。
この様な立場から、現在の自分自身が悟った後さらに迷っている状態なのか、あるいは迷いとは無関係の状態なのか、その点を細かく点検して、一体どちらが自分の実情であるかと言う事をしっかりと捉えるべきである。そのような努力をすることが、直接釈尊にお目にかかるというである。
※西嶋先生解説
ここで言っておられる事は、悟りとか、迷いとかというものに関連して、結局、現実をありのままに見る事が出来るか、出来ないかと言う事。あるいは、自分自身の実態をありのままに認める事が出来るかと言う事が大悟であり、却迷であると言っておられるわけであります。
―西嶋先生にある人が質問した―
--つづき
質問
よく「生活の態度としては貸しで行け」という主義がありますね。「借りでいってはいけない、貸しで行け」って。それをいま正面に出して言ってる人がいるんです。
先生
そういう人もあるかも知らんけど、仏道は貸し借りなしですね。「貸しで行け」なんてのは仏道思想じゃないね、そりゃ。(笑)
質問
よっぽどうぬぼれてるわけでしょ。
先生
それがあると思う。貸せるもんじゃないんですよ、人間のあり方として。借りたり貸したりで、各人が貸し借りなしですよ。現実の問題は。
質問
借りちゃうじゃありませんか、その貸す人の前に行くと。
先生
借りておいて一向に差し支えないんですよ。「貸します、貸します」と言ったら、「ハイ、お借りします」というんで。
質問
それじゃ頭上がんないですね。(笑)
先生
いや、だけど自分で借りたくて頭を下げて借りたんじゃなくて、相手が「貸したい、貸したい」と言ったから「じゃ、借りてあげましょう」というふうに言ったんだから、頭が上がらない必要はない。
質問
(笑いながら)そういう事で悩まなきゃなんないんです。年取ると。
先生
だから貸し借りなしというのが本来の人間の姿です。それで貸そうなんて思ってたってなかなか貸せないし、借りようと思ったってなかなか借りることは不可能だしね。そういうものが人間と人間との関係だと思いますよ。ところがえてして「あいつにこれだけやったのに、恩を仇で返された」なんてよく文句を言う人がいるけど、恩を借りたとか貸したとかというふうなことは、人間が勝手に頭の中で考えているだけの事で、法の世界というのは別の実態としてあるわけです。
質問
どうも失礼しました。あんまり俗っぽいことを伺いまして・・・。
先生
いやいや、そういう問題の中に仏道というのははっきりあると思いますよね。だからそういう問題をどう考えていくかというところまで掘り下げていかないと、仏教の教えというのは本当に生きてこないですよ。そういうところまで仏教というのをしみ込ませていくと、このくらい貴重な教えはないですよ。
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