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正法眼蔵 大悟 8

華厳休静禅師と僧との問答について道元禅師の注釈は続きます。

迷っていないという状態が悟る(真実を得た)ことではない。そうかといって、迷っていないことが悟りではないという事であるならば、大いに真実を得るために、その材料を作るために、悟る準備として迷おうとそういうバカげたことでもない。真実を得た人がさらに真実を得るという事もあるし、迷っている人が真実を得ると言う場合もある。真実を得た人がいると同時に、真実をすでに得た仏というものがさらに悟りを得るという場合もある。

人や仏が悟るだけではなしに、我々の周囲にあるところの物質的な(地・水・火・風・空)世界においても悟るという事はあるし、真実を現に得ている。また戸外の柱、燈籠と言うごくありふれた道具というものでさえ真実と一体になっている。我々の周囲の一切のものがすでに真実と一体になっているというのが現実であるけれども、ここで休静禅師と僧侶とのやり取りにおいては、「真実を得た境地の人とは一体どういう人でしょうか」という質問が行われたのである。

「真実と一体になった境地の人が迷った場合には一体どうなりましょうか」という質問はまさに質問しなければならないところを質問しているという事が出来る。このような難しい問題に対して、休静禅師は決して質問を嫌うことなしに、その教団の場において古人がやられたと同じような形で弟子を教えた。その点では釈尊の教えをしっかりと身につけた人の非常に優れた行いという事が出来るであろう。



              ―西嶋先生の話-
        --つづき

道諦(四番目の段階)
人間が行動しながら、しかも間違いを起こさない、いい事がやれる、悪い事をやらないで済ます事ができるにはどうしたらいいかという問題が出て来る訳です。そういう問題に関連して釈尊は、二千数百年前に坐禅と言う修行法を実際にやられて、そういう坐禅と言う修行法を通して人間はいい事をやりたいと思った場合にいい事がやれる。人間は悪い事をやりたくないと思った場合に悪い事をやらないで済ます事が出来る。人間はこの様な性格を本来持っているという事を主張された。これが仏教思想の基礎です。

仏教思想のかなり中心的な部分は倫理の問題と関連しているわけです。しかもその倫理は、人間が単に意思の力で何とかしようと思ってもどうしても出来るものではないと言う事が、仏教の主張であり道元禅師の主張である訳です。したがって、坐禅に頼ると言う事を主張されたわけです。ですから、道元禅師が「只管打坐」と言う主張をされていますが、「只管打坐」と言う言葉もそういう意味です。

我々の人生は容易ではない中々難しい。ただその難しい人生を生き抜いていく為には「坐禅に頼ると言う一つの方法がある」という事を主張されて、それを「只管打坐」と言う言葉で表現された。こう言う事がい言えようかと思うわけです。ですからそういう点では、仏教思想というものは倫理の問題と神秘の問題とが重なっていると言う事が言えようかと思います。この点は西洋の宗教観とは大きな食い違いがある訳です。

西洋の宗教観では、善悪の問題をそう大きく取り上げない。人間は不完全だからいい事をやろうと思っても出来ないし、悪い事をやるまいと思ってもやってしまうのが本来の性格だから、そういう実情から救われる為には「神」に祈るしかない、とこう言う考え方がある訳です。釈尊は人間は本来、善を行い悪を行わない素質を具えている、その本来の素質をどの様にして自分のものとして取り戻し活用するかと言う事が仏道だと言われた。

「正法眼蔵」の中に「諸悪莫作」と言う巻(カテゴリ10)があります。「諸悪莫作」とは「諸悪をつくることなかれ」と言うのが本来の意味です。この巻の中に面白い話があります。林道禅師と言う中国の高僧と白楽天との間の問答です。白楽天は、詩人として非常に優れた人であり仏教の勉強もしていた。ある時林道禅師に白楽天が「釈尊の教えの一番大切なところは何か」と言う質問をした。それに対して、林道禅師が「悪い事をしない事だ、いい事をやる事だ」と返事をした。

そこで、その返事を聞いた白楽天は不満を感じた。なぜ不満を感じたかと言うと仏教はもっと高尚な哲学だと思っていた。林道禅師の返事は、非常に単純な答えしか聞けなかったと言う印象を持った。そこで白楽天が「そういう事であれば、三つの赤ん坊でも言えますね」と言った。それに対して林道禅師は「確かに三つの赤ん坊でも言える事ではあるが、八十老翁になっても実行は出来ない」と言われたと言う話が伝わっています。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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