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正法眼蔵 大悟 7

京兆にある華厳寺の休静禅師に対してあるとき僧が質問した。「仏道修行をして仏道の真実というものをしっかりとつかんだ境地の人が、ふとした動機で迷ってしまった場合にはどうなりますか」。質問に対して休静禅師答える「割れた鏡が姿を映すという事はないし、木から落ちた花がもう一度木に戻る事はない」と。

この問答について道元禅師が注釈されます。
ここで僧侶が質問している事柄というものは、形の上では確かに質問の形をしているけれども、逆に沢山の人々に対して教えを与えていると言う様子が見られる。この様な質問は、洞山禅師の直接の後継者である華厳寺の休静禅師の様な優れた人の教団においてでなければ、実際に行われない質問であり中々そのような教育は行われないものである。この華厳寺の休静禅師の教団は、まさに釈尊の教えを十分に満たしたところの非常に行儀の正しい教団だと言う事が言えるであろう。

ここでこの僧侶が質問している真実をしっかりつかんだ境地の人という事の意味は、生まれつき何の仏道修行もしないで真実を得た人という意味ではないし、別の機会にすでに真実を得てそれを後生大事に抱えている人と言う意味でもない。真実を得るという事はこの宇宙の中に遍満しているものであるけれども、仏道修行の長い年月を経て年寄りになった時にやっとお目にかかるというものでもない。また自分自身がねじり鉢巻で頑張って他所から一所懸命引っ張って来ると言うものでもないけれども、人生において真実とめぐり合うという事は必ずあるものである。



              ―西嶋先生の話―
        --つづき

滅諦(三番目の段階)
西洋の思想で考えてみると、19世紀までは苦諦(一番目の考え方)と集諦(二番目の考え方)とが尖鋭に対立していた。だから19世紀までは「へ-ゲル」という哲学者は心の問題、精神の問題を尊重して、この世の中の一切は精神の発露だと言う捉え方をした訳です。それと同時に「マルクス」という学者は、いやそう言う考え方は甘い、この世の中は全部物質で出来上がっていると言う捉え方をした訳です。つまり社会の構造にしても、すべて物を基礎にした勢力関係でしかない、と。

だからそういう社会を良くするためには、力でそれを覆さなければならないと言う考え方を主張したわけです。ですからそういう点では西洋の思想と言えども、19世紀までは苦諦(一番目の考え方)と集諦(二番目の考え方)が激しく対立していた。ところが19世紀後半に入りますと、その二つの考え方を何とか乗り越えたいと言う気持ちが出て来た。19世紀末期の「ニ-チェ」と言う哲学者は人間の尊厳というものを考え出した。人間がどういう生き方をするかという事に関心を持ち始めた。

そういう傾向がハイデッガ-、ヤスペル、ディルタイ、サルトルと言うような哲学者によって取り上げられた。したがって、そういう20世紀の思想家たちは第三番目の考え方、つまり人間の働きと言うものを心の問題だけではなしに、あるいは体の問題だけではなしに、心と体とが一つになった人間の問題としてどう取り扱うかと言う事に努力した。こう言う事が言えると思うわけです。

ただ三番目の段階で全ての問題が解決するかと言うとそうはいかない。なぜならば人間が行動を実際にすると言う事は、いい結果、悪い結果を必ずもたらす。人間の行動のやり方によっていい結果ばかりでるとは限らない。悪い結果が次々と出て来る恐れも、実際に行動するという面からは常に生まれて来る訳です。その点では、机に坐って本を読んで問題を考えている段階では、必ずしも特別の問題は起こらない、人様に迷惑をかけると言う事もない。自分を傷つけると言う事もそう生まれてこない。 

それからまた、客観情勢に流されて流れのまにまに漂っていれば、これも人様の迷惑にそうならないし自分自身としては生きがいを感じないけれども、そう大きな現実の問題にはならない。しかし人間が行動の世界で一所懸命に動き回ると自分も傷つくし、人も傷つけると言う事情がどうしても出て来る。サルトルという人の思想なり行動なりを考えていくと、ほめる人もあれば、けなす人もいると言う事で、社会のプラスになったかと言う事では様々な議論が出て来るわけです。

そうすると人間は行動しながら、しかも間違いなく生きられるかどうかと言う事がかなり問題になってくるわけです。                          
                             つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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