トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 大悟 6

ここで私(道元禅師)は臨済禅師に質問してみたい。「悟っていない人を見つける事は難しい」と言われたけれども、それと同じ様に「悟っている人を見つけることも難しい」という事がわかってこないと、あなた(臨済禅師)の言葉は仏道の理解としてまだ十分だとは言えない。

※西嶋先生解説 
ここまで読んでくると一般的なものの考え方からすると、よくわからないと言う事になる訳であります。そしてここで道元禅師が言っておられることはどういうことかというと、まず臨済禅師は今ほど説明したように、誰でもが悟っていると言った訳です。それに対して道元禅師は、確かにそれは臨済禅師の言われる通りだ。たださらに現実というものを捉えていくならば、悟とか悟りでないと言うものがあるのかどうか。
 
そういう立場から考えていくと、悟っておる者を得る事が出来ないと言う事も現実としてある。臨済禅師が悟っておらん者を見つける事が難しいと言った事も本当であるが、悟っている者と言う訳のわからない者を見つける事が難しいというのもまさに現実である。つまり臨済禅師の言っておられた事の裏側もまた現実である。だからそれはどっちがいいと言う事ではなくて、我々の生きている世界というものは頭の中で考えて悟ったとか、悟らんとかというレッテルを考えだして、そのどっちかを貼って満足の出来る様なものではない。その事を道元禅師「悟っている人も、また見つける事は難しい」と言った。

道元禅師の臨済禅師に対する質問に戻ります。
「悟っている人も見つける事は難しい」と言う考え方がわかって来ないと、口先で「悟っていない人を見つける事が難しい」と言ったとしても、本当の意味がわかっているとは言い難い。完全に一人というわけではないけれども、その半分の人がいて、しかもその人は悟っておらない人で、しかもその顔といい姿といい極めて落ち着いていて、しかも人々は「さすが」と言って見上げるほどの堂々たる態度をしている人が現実にいるけれども、そういう人にあなたは出会ったことがあるかどうか。

臨済禅師は偉大な唐の国の中で、一人の悟っていない人を見つける事は難しいと言っているけれども、そう言う理解の仕方だけがこの現実の世界の究極の理解だなどと考えてはならない。現実に悟っていない人がいて、しかもどこから見ても実に優れた態度、様子をしている人がいないとは言い切れないと言う事が、現実としてある事もまた知らなければならない。

この現実の中で、一人とか半人とかと言うきわめて少ない数の人ではあるけれども、悟りを問題にしない人がはっきりといて、そういう人々の大きさの中には、偉大な唐の国が二つも三つも入ってしまう様な大きさが具わっていると言う事を見つけ、そしてそういう事が現実にあるという事を具体的に知るべきである。そういう人を得ることが難しいか、難しくないかという事はともかくとして、この様な見方が出来る様になった時、初めて釈尊の教えを十分に身につけた人として仏教界の大先輩として認めることができるであろう。



              ―西嶋先生の話―

仏教の端的な考え方を表わす思想として、四諦の教え(苦諦、集諦、滅諦、道諦)がある訳です。この四諦の教えは、何回もお話しましたが仏教の基本的な考え方。この四諦の考え方は四つの考え方でありまして、何を意味するかと言うと、我々の普通の人生経路というものをそのまま考えていくと比較的わかりやすいと思う訳です。

苦諦(一番目の段階)
我々人間が物心がつくと「ああしたい、こうしたい、こうしなければならない、ああしなければならない」と言う願望や願いが必ず生まれてくる。子供の時代には様々な夢があり、様々な願望があり、様々な希望があったと言う記憶は誰にでもある。そういう希望なり願望なりが日常生活において常に実現したかと言うと、どうもそうはいかないと言う生活の中に我々は置かれていると言う事が子供心にもわかってくる。

自分の希望に向かって努力してみても、中々思う様に行かない事を何年か経験すると、そのうちに少し人間が大人になってくる。少し大人になって来ると、今度は願望なり希望なりの裏側を見始める。その裏側と言うのは何かと言うと、どうにも人間の希望や願望では動かす事の出来ない物の世界、客観世界が我々をがっちりと縛り付けて動きが取れない様にしていると言う事に気づく訳です。

集諦(二番目の段階)
物質の世界と言うものは、人間の生活の中では体の問題として現れて来る訳です。我々が心の中で様々な希望を持っていて中々それがうまく実現しないと言う一つの原因は、我々が肉体を持ち、肉体の束縛の中で生きていると言う事実と非常に関係がある訳です。そういう経験をしてみますと、我々は希望を捨てるという事を考えるわけです。つまり、いくら努力しようとしても我々はそういう原因、結果の関係に縛られていて動きが取れないのだから、希望を持ち理想を持って努力する事は意味がない、

むしろ、客観的な情勢に即応して流されていくしか人間の生き方はないと言う考え方も我々の日常生活の上では、第二番目の段階として生まれてくるわけです。日本の国の経過について考えて見ますと、昭和20年以前には理想を掲げて、国家を中心にして一所懸命に国全体が努力していた時期があったと同時に、それが正しかったかどうかと言う点にかなりの疑問がある訳です。昭和20年以降は、今まで教えられた理想や国家は正しくないと言う考え方が強くなった。

そして、個人の生活が非常に大切であるし、愛欲の問題が大切であるし、個人の自由が大切であると言う考え方が今迄ずっと続いて来た事と関係がある訳です。人間が客観的な情勢だけに流されて我慢できるかと言うと、人間は中々そう言う欲の小さい生き物ではない。人間はそういう点では、環境に従って流されて行くしか生き方がないと言う事で甘んじる事の出来るほど粗末な存在ではない。客観情勢に流されて生きていると、どうしても不満が出て来る。

「これでいいのかなあ」と言う疑問が出て来る。そこで何とかしなければならないという事で、日常生活で行動を通して一所懸命努力すると言う段階が、三番目の段階として生まれてくる訳です。
                                
                   つづく--


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-