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正法眼蔵 大悟 4

真実を得た状態に十分満足していると言う事は、とりもなおさず我々の日常生活であり、それは、生まれつき我々が真実と一体であると言うところから生まれてくる。なぜそうかというならば、我々は自分たちの人生において真実とは何かと言う事を常に頭において一所懸命勉強しているからに他ならない。

※西嶋先生解説
なぜ我々が仏道を勉強しようという気になったかというと、我々は生まれつき真実と一体になっておるから。真実と我々が離れておるものであるならば、どんなことがあっても「仏道を勉強してみようかな」なんて言う気が起きるはずがない。何らかの機縁で仏教を勉強してみようかなという気が起きたという事は、我々の生まれつきの中に真実と一体のものがはっきりあるからに他ならない。

本文に戻ります。
我々は三種類の世界を材料にして真実を得るのである。三種類の世界とは、三界(欲界・色界・無色界)である。欲界とは意欲の世界、頭の中で考えられた理想の世界。色界とは感覚で捉えられた世界、眼で見える世界、物質の世界。無色界とは我々が日常生活で動き回る世界。

我々は、四大の世界を材料にして真実を得るのである。四大とは地・水・火・風である。今日の言葉で言えば、は固体、は液体、は化学反応、は気体である。そういう物質の世界を材料にして真実を得る。

我々は百艸頭を材料にして真実を得るのである。百艸頭とは机・壁・黒板・障子等々様々な物と言う意味である。我々は自分自身が仏になって真実を得るのである。仏になるとはどういう事かと言うと、坐禅をやる事によって仏と一体になった状態である。我々はこの我々の住んでいるこの宇宙を材料にして真実を得るのである。そういう関係から言うならば、すでに真実を得ていると言う状態を持ってきて真実をつかむのである。

迷っているものが急に真実を得るという事ではなくて、本来から真実を得ている人がその事に気がつくと言う事である。その真実を得る瞬間というのはどういう時期かというと、今でしかない。「かつて真実を得ました」と言うような事はあり得ない。「そのうち真実を得る」という事もあり得ない。今が真実を得る瞬間だ。

※西嶋先生解説
この様に、道元禅師は真実を得る、得ないという問題についても、極めて具体的な我々の日常生活の中で一体どうなっておるかという事を中心にして問題を説かれておるわけであります。だからその点では、一般に我々が常識的に考えておる宗教的な考え方とかなり違った考え方をされているわけでありますが、どちらの考え方が正しいかというと、私の率直な意見を言えば、道元禅師の説かれたことが唯一の仏道、それ以外の考え方は仏道と言い得るのかどうかわからんという事情があるわけであります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
東京にいるからこうやって先生に教えを願ってるけど、岩手の山の中の発電所かなんかに勤務していて坐禅はするけども、坐禅の指導者がいないとなった時に自分一人で坐るわけですね。そうすると先生の「正法眼蔵現代語訳」を見ても中々よくわからないという問題が起こりますけど、そういう人たちの指導というか、あるいはそういう人たち自身はどのように・・・。

先生
これはね、坐禅さえすればいいんです。二、三日前にオランダの人から手紙をもらいましてね、その人と前から二、三回文通はあるんですけれども、「自分はどうしても日本に行くことが出来ない。それでも仏教徒になれるかどうか」という質問を手紙で書いてきたんですよ。だから今日その返事を書いたわけですけどね。仏道を信ずるという事があるならば仏教徒に誰でもなれるんだし、ましてその人はここのところずうっと毎日坐禅をやっておられるという手紙を書いてきたからね。

毎日坐禅をやっている以上、世界のどこにいようと、日本に一度も来たことがなくても立派な仏教徒だという返事を書いたんです。そういう事で、仏道の中心は坐禅をするという事の方が中心なんですね。だからその点では「正法眼蔵」が読める、読めないという事はたいした問題ではないという事が言えると思います。ですから、岩手県の山の中で坐禅をしておっても、やっぱり坐禅をしていれば仏教というものは体全体で味わう事が出来るわけです。

体全体で仏道を味わうという事は、文字が一字も読めなくても立派な仏(真実を得た人)だという事が言えるわけです。坐禅というものはそういうものだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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