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正法眼蔵 大悟 3

それからまた師匠なしに得られる智慧と言うものがある。それは高徳の僧侶に教えを受けることでもないし、経典によって得るものでもない。外見とは別に奥深く内蔵されている本質というものでもないし、外から見える姿というものでもないし、自分自身を否定し転換することでもない。自分以外の者との関係でややこしい関係があるということでもなしに、現実の世界において堂々とその身を現していると言う智慧もある。

これら様々の智慧には種類があるけれども、そのうちのどれが優れていて、どれが駄目であると考える必要はない。それぞれにそれぞれの特徴を持ち、それぞれの実態というものを現に現している。この様に考えてくると、この世の中に生きている様々な生き物は、生まれながらの智慧を持っているのだと学ぶべきである。そして生まれつきの智慧があるという事は、生まれつき真実を悟っている事でもあり、生まれつき正しい体験を持っている事であり、それであればこそ生まれつき一所懸命修行をする素質を持っていると言う事でもある。

このような状況から、釈尊は調御丈夫(自分自身を管理する能力が十分に具わっている人)と呼ばれていた。それは生まれつき真実をつかんでいたという事も言えるし、またそのように言われて今日に来た。しかしこの様な状態というものは、単に釈尊だけの事ではない。およそ生きとし生けるもの、人間であれ、人間以外の生き物であれ、いずれも生まれつき真実をつかんだ存在であると言える。なぜならば我々の生き方とは、生き方そのものが真実と一体になっていると言う事が言えるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道の中の恋愛について、例えば僧伽の中の僧と尼さんですね。そういう関係は離せないで混在しているわけですよ。その間のコミュニケ-ションというんでしょうか、そういう状態は仏道的にどういうふうに・・・。

先生
(笑いながら)それでね、まあこの前もちょっと話しましたけれども、恋愛というのは男女間の愛情ですわな、男女間の愛情というものが人生の全てという考え方をすると、私は正しくないと思う。というのは、人生というのはいろんな要素があって、男女間の愛情だけが全てだという捉え方では解決できない問題がいっくらもあるわけですよね。

だからそれを全部男女間の愛情だけが全てだというふうな考え方で生きていくならば、これは必ず間違うという事が言えると思う。だからそういう点では非常に大切なものかもしれないけれども、全てではないという事が言えると思います。

質問
全てじゃなくて、何なんですか。

先生
それで、男女の愛情というものに関連して非常に大切なことはいい子孫を残すという事。こういう見方っていうのは今日あんまりないですよね。だから恋愛そのものは価値があって、子供をつくるというようなこととあんまり関係ないように考えておって、子供をつくるとか結婚するとかという事と独立して愛情の問題に価値があるという捉え方が非常に多いけれども、私はどうもそういう問題を考えてみた場合に、男女の愛情関係というのはいい子孫を残すための一つのステップでしかないと。

だから、結婚を前提としない男女関係については、時間をつぶすだけの価値がないとみていい。これは非常に酷な見方だけれどね。結局そういう事でしか私は男女の問題というのは評価することができない。それと同時に、男女が愛情を持ち、結婚をし、いい子供を育てるというのは、非常に価値のある、非常に大切な事。ただこれは苦労があるわけでね。誰でもがしなきゃならんという問題でもない。子供を育てることに専念するという事も一つの生き方だけれども、社会の仕事を一所懸命やって働くという事も一つの生き方だ。誰もが子供をつくらなければ意味がないという事ではない。その他にやらなきゃならん仕事はいっぱいある。だからそういう点からも、男女間の問題が我々の人生の全てではないと。やっとそういう事が最近分かって来た。(笑) 若い時はそういう事がよくわからなかった。(笑)

質問
それが仏道における恋愛の問題ですね。そうすると男僧と尼僧の間の関係は当然ないですね、子供を必要としなければ。

先生
ええ。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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