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正法眼蔵 神通 32

百丈大智禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊の教えというものを正しく伝承してきた人々でないならば、誰がこのような基本的な理論というものがあるとさえ耳にすることができるであろう。自分自身の大切なものを忘れて、自分以外のところに目的を求めて駆けずり回る努力が、自分自身に還帰するための行動だというふうに錯覚している人ばかりである。

※西嶋先生解説
我々は外に向かって駈けずり回っている場合が多い。たとえば今日の社会で言うと学校教育というものがあるけれども、「少しでもいい学校に入って・・・」と言う様な事は、人との比較の問題でどっちが偉いかと言う事に夢中になる。自分自身がどうかと言うような事にあんまり関心がなくて、「人に負けた!」とか言って悔しがったり「人より偉くなった!」と言ってちょっと得意になったりというふうな形が多い。

この事はどういうことかというと、仏道の世界について言うならば、悟りというものが他所にあって、それを何とか得たい、得たいという事で、焦りに焦って日常生活を送りながら、そういう焦りの実態というものが、自分自身をつかんだ事に他ならないと勘違いしている事を指しておられるわけであります。したがって仏道修行の目的というのは、自分自身から離れることではなくて、自分自身をつかむと言う事に他ならない、という意味でもあるわけであります。

道元禅師の注釈に戻ります。
仏道修行者における四果(四番目の成果)というものは、釈尊の教えを勉強していく上においては、誰の仏道修行に関連しても具わっているものではあるけれども、経典に精通した三蔵法師と呼ばれる人々の中で、これを正しく伝承した人はいない。すなわち無駄に砂浜の砂粒を数えるのと同じ様に、文字を通じて仏教を理解しようとする人々や、本当に頼りになるものを忘れ、自分自身と無縁の世界をうろついている人々が、どうしてこの成果を得る事があろう。

仏道修行のやり方についても、大きな目標を求めてやる場合と、単なる特殊能力を得たいと思って努力をする小さな目的など様々な種類があるけれども、その小さな目的を得たと言う事ですっかり満足してしまう人々というものは、仏道修行において究極のものに到達したと言う事はできない。仏道修行の四果(四番目の成果)というものは、真実を得た人と真実を得た人の間においてのみ伝承が行われてきたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は「すんなり生きてきた場合には、こういうひねくれた考え方を勉強してみようと言う気にならない」と言われましたが、必要ないからでしょう、苦労していない人は。

先生
うん、それもあると思いますね。やっぱり「これじゃならん」という事になって勉強しようというふうなことは出てくると思いますね。だから苦労を逃げている場合には、仏道には巡り合わんかも知らんね。バカ真面目で、何でもかんでもぶつかっていくというようなタイプだと、どうやったらぶつからないで済むかという事が必要になって来るわけです。ぶつかるのを逃げておれば、いつまでたっても問題が起きないから、仏道を勉強しようという興味も起きてこない。

逃げて逃げて逃げ回って何十年か生きて「さて何のために逃げてたんだろう」という事になると、これはやっぱり悲劇かもしれないね。逃げて逃げてて人生を終わっちゃったというような場合はいくらでもあり得るから。そうかといって岩にばかりガチンガチンぶつかって頭が傷だらけで、いつまでたってもわけが分からんというのも、これも困るわけでね。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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