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正法眼蔵 神通 28

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。

この様に考えてくると、仏教界で真実を得られた沢山の方々が持っておられた六通(六種類の神秘的な働き)は、様々の神々、鬼神、その他、仏道修行をしている人でも、頭だけで仏道修行をしようとか、感覚だけを通してのみ仏道に通達しようと努力している人々にとって到底及び得るところではない。

※西嶋先生解説          
その点では、行動を通して、坐禅を通して仏道修行をしている人にのみ通達しうるところである。先ほどのこだわらないという事と坐禅という事とは関係がある。坐禅によって何か悟りが得られるという余分なものがくつくのではなくて、今まで持っていた余分なものがどんどん離れていくというのが坐禅の修行。だから坐禅によって特別なものになるのではなしに、こだわりから離れていくという事が坐禅の修行。そういうすべてのこだわりから離れるという事が仏道修行であるから、それ以外の立場から仏道を眺めておる人にとっては、想像もできないところである。

本文に戻ります。
釈尊が説かれた六通(六種類の神秘的な働き)は、釈尊の教えに従って坐禅の修業をしている釈尊の弟子だけに伝えられたところである。釈尊の教えに従って坐禅をしていない人々には伝承されていないものである。釈尊の持っておられた六通(六種類の神秘的な働き)は、釈尊の説かれた教えの中だけに、しかも一系に伝承されているのである。

したがって、釈尊以来正当な師匠から正当な弟子に一系に伝えられた教えを受けている者でない限り、釈尊の説かれた六通(六種類の神秘的な働き)を知ることができないのである。釈尊の持っておられた六通(六種類の神秘的な働き)を一系に伝えていない人々は、釈尊の説かれた教えを学んでいる人とは言い難いと理解すべきである。

※西嶋先生解説
最後の言葉には、二つの意味があって一つには、「神通」というものは仏道には関係ないんだ、そういうものは問題にならないと言う主張。それに対して二つには、釈尊には普通の人では想像できないような神通があったと言う主張。それと同時に、釈尊の説かれた神通というものは、いわゆる我々が普通に想像している超能力というふうな、常識的には考えられないような働きではなくて、我々の日常生活において常にいきており、常に役だっているところの、何物にもとらわれない働きが、釈尊の説かれた神通である、そういう主張が含まれているわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
                         --つづき

法という言葉について、第三番目の考え方、もっと具体的なもっと現実的な、我々の日常生活に密着した問題として法というものを考えていきますと、それは我々の日常生活、あるいは日常生活における行いというものが法であるという捉え方ができるわけであります。仏教の言葉の中に「著衣喫飯」という言葉がある。「著衣」というのは着物を着るという意味、「喫飯」というのはご飯を食べるという意味。法とは何かといわれた場合に、著衣喫飯(着物を着たり、ご飯を食べたり)が法だという捉え方があるわけであります。

そういう捉え方で法というものを考えていきますと、我々の日常生活のすべて、したがってご飯を食べたり、手洗いに行ったり、仕事をしたり、家族の面倒を見たりと、そういうふうな日常生活の一切が法だと。それは客観的な世界で行われるわけであります。宇宙の中で行われるわけであります。また自分の良心というものを基準にして、自分がこうしたい、ああしたい、こうしなければならない、ああしなければならないという事を基準にして行われるわけであります。

だから、最初に述べた法と、二番目に述べた宇宙そのものという意味での法とがちょうどぶつかり合った接点から生まれてくるようなものが、我々の日常生活であり、それが第三番目の立場から見た法だと考えて間違いないわけであります。この三番目の法というのは、ただ往々にして道から外れがちである。だからそこで正しい状態というものにその日常生活をもう一度引き戻すという問題があるわけでありまして、そこで第四番目の立場の法というものが出てくるわけであります。

                    つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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