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正法眼蔵 神通 26

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊の神通(神秘的な働き)とは、彩の世界に入っても色彩に溺れることなく、音の世界に入っても音声に溺れることなく、いの世界に入っても香りに溺れることなく、の世界に入っても味に溺れることなく、感の世界に入っても感触に溺れることなく、(宇宙秩序)の世界に入っても、法に溺れることがない。

したがって、色彩・音声・香り・味・感触・宇宙秩序と言う六種類のものは様々の変化はあるけれども、それらはいずれも自分自身がそれに執着してそれに引きずり回されるべきものではないという事に通達するならば、この世の真実を完全に理解した人格に対しては、何物もこれを拘束することができない。

先に述べた色・声・香・味・触・法・という客観的な様々の環境、刺激というものは、いずれも五蘊(色・受・想・行・識)というこの世の中の五種類の要素から生まれてきたものではあるけれども、それらをすべて拘束の対象と感じない点では、人間として最高の神秘的な働きであり、最高のあり方である。

※西嶋先生解説
つまり、我々は様々な刺激の世界に生きているわけであるけれども、そういう刺激にいい悪いがないわけではないけれども、良かろうと悪かろうと、そういうものを素直に受け入れ、それらに惑わされないで生きて行くという釈尊の様な生き方というものが、人間として最高の神秘的な生きかたである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「正法眼蔵」と言う九十五巻もの本を書いて、これでもかこれでもかと言う気がするのです。「ただ、黙って坐っていればそれでいいんだ」と言う事であれば「只管打坐」一言でいい気がするんです。そこら辺はやっぱり頭がいいという事の証拠なんですかね、ゴチャゴチャ書いて、ああでもないこうでもないと言って引っ掻き回す様な話が出てくるのは。

先生
それはね「只管打坐」という事だけでいい訳だけれども、人間はそれでは納得しないんですよ。説明がないと。本来説明できないものを説明しようとするんだからいろんな言葉がいるわけです。そういう説明の努力として、この「正法眼蔵」と言う本が出来上がったと言う事が言える訳ですよね。「正法眼蔵」の本が仮になかったとすると、我々は「只管打坐」がなぜ真実なのかが永遠に解らないないと言う事ですよ。

我々は理屈で問題を考えるのが好きだから、そりゃ坐禅をやれば感じ取れるのかどうかわらんけれども、理論的に「こう言うならばこうだ」と言う説明がないと納得しないと言う面がある訳です。そう言う理論的な面の納得の為に、この「正法眼蔵」が書かれたと言う問題がある訳です。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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