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正法眼蔵 神通 23

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。

五通仙人には五通(五種類の神秘的な働き)があると人もいい、五通仙人もそういうふうに考えていたわけであるけれども、その五通は、釈尊が持っておられると言われている六通(六種類の神秘的な働き)の中の五通というわけではない。

※西嶋先生の解説   
この事はどういうことかというと、釈尊が持っておられた働きと、五通仙人が持っていた働きとは中身が違う、性質が違う。今日でもよく超能力と言うような事が問題になるわけで、様々な努力をすれば普通の人にはできない様な能力と言うものを身につけると言う事はそう珍しい事ではない。努力さえすれば、そういう能力というものは身につくわけであるけれども、釈尊が持っておられた働きというのは、そういう努力によって得られる様な働きとは違う。
   
では、どういう事かと言うと、釈尊はこの宇宙というものの原則をしっかりとつかんで、その宇宙の原則に従って生きられたと言う事に他ならない。だから人から名前を呼ばれたら「はい」と返事をすると言うふうな、きわめて普通のごく当たり前の日常生活と言うものが釈尊の説かれた最高の神通(神秘的な働き)と言う事にならざるを得ない。ここでは、五通仙人が一所懸命努力をしてやっと手に入れた五神通と、釈尊が仏道修行によって得られた神通とは、性質が違う、中身が違うという事を言っておられるわけであります。

本文に戻ります。
この五通仙人が得ていたところの神秘的な働きとは、釈尊の神秘的な能力からするならば、容易にそれが達成できるところであるとしても、たまたま人為的な修行によって得たところの能力を持っている、その五通仙人が釈尊のように仏道の究極に達して得たところの神秘的な働きというものをどうして理解することができたであろう。もしこの五通仙人が、釈尊の持っておられたたった一つの神秘的な働きを理解していたならば、それをきっかけにして釈尊の人格の全てを理解できたはずである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は「かわいさ余って憎さ」という事もあるというふうに…。それが仏道的な考え方ですか。

先生
ええ、釈尊の教えの中にはそういう考え方があると思います。それから近代的な心理学から言っても、愛情というものと憎しみというのは同じところに存在するんだという理解があるんですよ。これは我々の日常生活を考えてみて、私は当たっていると思う。その点は親子なんかの情愛にしても、子供をかわいがり過ぎると、子供が今度は親に対して負担になるというふうな心配もありますね。

そうすると子供についての愛情というようなものでも、あんまり過剰だと、今度はかえって子供に大きな負担をかけるというふうな恐れもある。だから釈尊がそういう点では愛情というものについてかなり消極的な態度をとられたのは、そこに原因があると思います。愛情だけで人間が本当に幸福になるかどうかというと、どうも人間というのはそういうふうに単純にできていないという事。我々のおかれている世界そのものが、宇宙そのものがそう単純にはできてはいない。もっと、二つの相反する力が寄り集まったところに、我々の宇宙があり、人生があると、そういう考え方をするわけです。

だから愛情というものを万能に考えて、愛情さえあればなんでもかんでも世の中の全てが解決するというふうに、我々の住んでいる世界は単純ではないというのが釈尊の教えだと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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