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正法眼蔵 神通 25

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。

この様な事情から臨済義玄禅師が言われた
かつての仏教界の先輩が言うには、釈尊の全身に具わる優れた姿というものは、いずれも世間の人情に合わせながら法を説こうとされたのである。釈尊は三十二の優れた姿を持ち、八十種類の優れた特徴を持っていると伝えられているけれども、その真意は人々が断見(因果関係を否定する考え方)に陥ることを避けるために言われた事であって、必ずしも実質的な意味があるわけではない。

※西嶋先生解説
釈尊の姿については、三十二相という言い伝えが古来からあるわけであります。たとえば、非常に弁舌がたったというところから「広長舌相」とが、また釈尊の体は輝いていたという「身金色相」という表現もある。

本文に戻ります。
体の特徴がどんな姿をしているかと言う事は、仏道の真実を得たと言う事と直接の関係はない。仏道修行によって到達する真の姿は、必ずしも外見とは直接の関係はないと言うことができる。そして人々は釈尊には六種類の神通があって、これらは我々の頭ではなかなか考え及ばないところであるという。

しかし、単に釈尊ばかりではなしに、この世における一切の諸仏・神仙・阿修羅・大力鬼たちにも神通(神秘的な働き)があるとされている。しかしこれらを仏(真実を得た人)と呼ぶことが許されるであろうか。仏道修行をしている人々よ、誤った判断をしてはならない。例えば阿修羅が戦いに敗れ、多数の一族郎党を引き連れて、蓮根の孔の中に隠れた場合に一芸一技を極めた達人と言う事が出来るであろうか。

今ここで自分(臨済義玄禅師)が例に取り上げたところの阿修羅の力というものは、いずれも過去における修練の結果得た「神通」であり、その点では本質的な能力ではなく、薬物や咒術(呪い)などに依存した働きである。しかしながら、釈尊が持っておられた六通(六種類の神秘的な働き)というものは、その様なものではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「断見」というのは間違いで、それから断見の反対の「常見」というのがございますが、「常見」も間違いだと。

先生
はい。

質問
そうしますと、正しい見(見方、立場)というのは、断見、常見でない見という事になるわけでございますね。

先生
はい、そうです。

質問
正見(しょうけん)というような考え方ですか。

先生
そうです。それは具体的にはどういうことかと言いますと、常見というのは心の問題だけを信じて、我々の生きている世界というのは精神的な永遠の世界だという理解の仕方が常見の世界。それから逆に断見というのは、我々の生きている世界というのは物質的な世界で、切れ切れのもので決して永遠というふうな意味はないんだ、だからどんな悪いことをしても、その場限りのもので、将来にどうこうというようなことはないんだというふうな考え方が断見。

その両方のとらえ方が我々の人生のとらえ方としては間違い。じゃどういう捉え方が正しいかというと、現実そのものをしっかりつかむという事。現実をつかむという事は、こだわりをすべて離れるという事、そのことを仏道として説かれた。だから仏道というのは、心に片寄り過ぎてもだめだし、体に片寄り過ぎてもだめだ。体とか心とかというものを棚上げしたところに現実がある。真実の本当の現実がある。それを実際につかむための一つの手段として坐禅がある。坐禅によって心の問題を離れ、体の問題を離れるというのが仏道修行の意味だ。

そのことを道元禅師は「身心脱落」と言われた。身心脱落というのは天童如浄禅師から教えられた教えで、その身心脱落、体の問題を離れる、心の問題も離れる、もっと現実的に我々自身の生活をとらえる、我々自身の生活を現実的に生き抜くという事が仏道だと、そういうことを主張されておるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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