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正法眼蔵 神通 24

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師の注釈は続きます。

そこでこの五通仙人を見た場合に、その姿が釈尊の持っておられた神通(神秘的な働き)に非常に似たところがあり、また釈尊の外見を見た場合、五通仙人が持っていた神通に非常によく似たところはあるが、釈尊が持っておられた神通とは別のものであるという事を知るべきである。そして釈尊が持っておられたたった一つの神通についてさえ、六通仙人が理解していなかったとするならば、その五通仙人が持っていた五通(五種類の神秘的な働き)というものは、すべて釈尊と同じ働きではないのである。

そこで五通仙人が、「釈尊と自分自身を比較して、釈尊は六種類の働きを持っているけれども、自分は五種類しか持っておりません、差し引き一つの神通とは一体何でしょうか」と質問したけれども、その様な単純な理解の仕方で、たった一つのその差はなんであるかという質問をしてみても、それが一体何の役に立つのかというふうに釈尊は考えておられたのである。

釈尊のその時の真意を推察するならば、お前は五種類の神通を得たと自負をしているけれども、そのうちのたった一つの神通についても、その本当の実態というものについて釈尊に質問すべきであると言っておられるのである。五通仙人はあの働きについても、この働きについても質問すべきである。

五通仙人は五種類の神秘的な働きにはについて自分は通達していると考えているけれども、そのうちのたった一つの「神通」も釈尊の「神通」におよぶものではないし、肩を並べうるものではない。この様に考えてくると、釈尊の持っておられた神通と、釈尊以外の人が持っていた神通とは、呼び名は同じく神秘的な働き=神通と言う言葉であるが、内容ははるかに異なっていると言う事を知るべきである。



              ―西嶋先生の話―

次から次へと変化していく瞬間瞬間に、我々の体、心が喜びに満たされていくと言うのが我々の実人生である。こう言う考え方を聞くと「いや我々の人生はそんな素晴しいものではない、悩みも多く面倒な事も多くて、早く終わりにしたいと思う事ばかりだ」と言う実感ももちろんあるかも知れないけれども、それと同時に坐禅の中身というものを考えてみると、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている時と言うのは、人生の悩みからとにかく離れる事が出来る。

だから仮に日曜日、どうも気分がスッキリしない、面白くなくてしょうがないと言う場合に、だまされたと思って坐禅をちょっとやってみるといい。しばらく坐っていると、さっきあんなに悩んでいたのは、どうしてあんなに悩んでいたのだろうと思って不思議になるくらいに気分が変わる。それがなぜわかるかと言うと、体の状態が変わるから。我々の悩みと言うものも、筋肉の状態、背骨の状態、神経の状態がどうなっているかと言う事でしかない。

だからその形を治すと気持ちの方もスッキリすると言う極めて単純な原理に貫かれていると言うのが、我々の体であり我々の人生である。しかしそんな単純な事でとても人生は説明できない、もっと複雑でどうにもならない様な悩みが沢山あるんだと皆さん考えておられるみたいだけれども、本当に辛いと思った時にヒョッと気分を変えて坐禅をするという事をやってみたら、おそらく私の言っている事が嘘ではないと言う事がわかってくるんじゃないかと、そういうふうに感じる訳であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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