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正法眼蔵 神通 21

釈尊と五通仙人の説話について道元禅師が注釈されます

この釈尊と五通仙人との説話をよくよく勉強してみる必要がある。この仙人はどうして釈尊に六通(六種類の神秘的な働き)があるという事を知ることが出来よう。釈尊には数え切れない程の神通や智慧があるのであり、釈尊が持っておられる神通は単に六種類の神秘的な働きだけに限らないのである。

仮にこの仙人が釈尊の持っておられる六種類の神秘的な働きだけを知る事が出来たとしても、その神通が一体どういうものかと言う事を十分に理解することはできないはずである。まして釈尊が持っておられるそれ以外の神秘的な働きについては、どうして夢にさえ見る事ができよう。

とりあえず質問するとすれば、仙人はたとえ釈尊を感覚的にみることはあっても、釈尊の人格に触れる形でお会いしているかどうか。そして仮に釈尊の人格については多少の理解がついていたとしても、本当の意味で釈尊ご自身とお会いしていたかどうかを問う必要がある。

そして、釈尊ご自身にお会いしていた、釈尊と同じ人格にお会いしていたと言えたとしても、一番肝心な事は、五通仙人が自分自身と出会っていたか、と言う事を質問すべきである。

※西嶋先生解説
我々が仏道修行をしている一つの目的は、自分自身に出会うと言うこと。自分というものが一体どういうものかと言う事をしっかり掴むと事が仏道修行の非常に大切なねらいであるわけで、したがって五通仙人といえども、釈尊にお会いした、お会いしないと言う事よりも、もっと大切な事は五通仙人自身に出会っていたかどうか、自分自身をしっかり掴んでいたかどうかと言う事が問題になるわけです。



              ―西島先生の話―
                           --つづき

仏について第二番目の考え方、もっと客観的な、もっと物質的な立場から仏というものを考えていきますと、たとえば「正法眼蔵」の中に「谿声山色」という巻があるわけであります。「谿声山色」というのはどういうことかというと、谷川の水音、あるいは山の姿、これらがいずれも仏であるという主張をしておられるわけであります。

したがって、谷川の水音、山の姿というものも仏であるという事を考えていきますと、我々が住んでいる世界、宇宙というものの一切が仏だという考え方も成り立つわけであります。だからその点では、仏とは宇宙の一切だという捉え方が、二番目の考え方として出てくるわけであります。

それから第三番目の考え方、つまりもっと現実的に現在の瞬間においてどういうものが仏かという事になりますと、それは現在の瞬間に生きている我々自身、我々の日常生活、あるいは我々の人生そのものが仏だという考え方もできるわけであります。その点では一所懸命に日常生活を生きている一切の人々が仏であるという捉え方もできるわけであります。

ただ我々人間というのはえてして道から外れがち。自分では一所懸命正しいことをやっていこうと思っても、中々正しいことができないというふうなことが現実としてあるわけでありますが、そこで第四番目の考え方として、坐禅というものがあるわけであります。坐禅というものに我が身を置いている時には、我々自身が仏と一体になっている。そういう点では坐禅そのものが仏という状態そのものであるという捉え方もできるわけであります。

ですから仏という言葉についても、いま述べたような四つの立場から理解していく、捉えていくという事が仏教を理解していく上においては、かなり大切なことだというふうに考えられるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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