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正法眼蔵 神通 19

雲巌曇晟禅師と洞山良价禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

現に我々を取り巻いている四大・五大・六大・諸大・無量大、それらの様々の物質的な要素というものも、我々の日常生活において出たり入ったりして、いずれも神秘的な働きをしているのであり、飲み込んだり、吐き出されたりという様々の形で神秘的な働きをしているのである。それは現に大地や空間という世界の中で生きている、一人一人の人間が、いずれも宇宙を飲み込んだり、吐き出したりしているのである

※西嶋先生解説
古代インド人は世界を物質的に考えると四大、地(個体)・水(液体)・火(化学反応)・風(気体)。五大、地・水・火・風に空(空間)。六大、五大に識(心)。諸大、様々の物質的な要素。無量大、無限な物質的な要素という表現で表した。

本文に戻ります。
芥子粒に動かされて我々の日常生活が動いていくと力関係もあるし、あるいは極めて小さな毛筋の先ほどのものに引きずり回されて日常生活が動いていくという力関係もある。その点では、頭の働きが及ばないような境地と同時に生まれ、頭の働きによっては到底理解することのできない何らかの実態の中に住み、その様な実体を保持して、頭の働きでは及ばないところの何らかの実態の中に住まって生きているのである。

我々の日常生活、人生というものは、短いとか長いとかという言葉では割り切ることのできないような、釈尊が説かれた神秘的な動きが様々に姿を変えて現れてくるのが実態であって、頭の先だけで考えて、何とかしてそれを読み切ろうと努力してみるだけが我々のやることであろうか。

※西嶋先生解説
だからこのようなところから見ていくと、坐禅によって決して何かを理解しよう、悟ろうという努力をしているわけではない。我々の人生そのものが、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ-ッと坐っているような姿というものが実態。だからそれは頭で読み切れるものではないから、体で味わざるを得ない。坐禅というのは、言葉で表現することのできない実態を、体を通して味わうという事、体全体、心全体を通して味わうということがねらいという事になる。

そういう形に我が身を置くことによって、頭では理解できないところの実態というものが体全体でわかって来る、心全体でわかってくるというのが仏道修行。そういう点では正義感というふうなものが自然に身につくという事と関係があるわけです。そういうものが身についていれば、「あ、これ以上やっちゃいかん」というようなことでブレ-キがかかるわけです。ブレ-キがかからんと二億も三億もラスベガスで損して、それでもまだえばっているというような不思議な人もいるわけで。(笑)



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
東洋の思想でたとえば儒教あるいは老荘思想などは、やっぱり仏教と比べると三合目とか五合目ぐらいになるんでしょうか。

先生
そういう、程度の違いがあるという事が道元禅師の主張でもあるわけです。どういう点が違うかと言うと、たとえば過去はすでに消滅したとか、未来はいまだ至らずとか、現在は留まる事なしと言う様な時間に対する考え方と言うものが、儒教、道教にはないんです。こう言う時間の観念に対して、明確な理解を持っているのは仏教哲学なわけです。だからそういう点で、思想的な深さが違うからそれらを同じだと見るのは誤りだと言うのが、道元禅師が三教一致の説に対して反対しておられた理由だと思います。

※私の独り言。
安倍総理、プレミアムフライデーに坐禅を組まれたようです。「慌ただしい毎日ですが、久しぶりに静かなひと時を過ごし、すっきりと落ち着いた気持ちになりました」と言っています。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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