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正法眼蔵 神通 16

龐居士蘊公の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

過去において沢山の方々が仏道修行をして釈尊の説かれた真実を得られたけれども、それらの方々は、いずれも一所懸命日常生活の仕事を積み重ねて生きてこられたればこそ、釈尊の教えの真実に到達されたのである。したがって小乗的な仏教徒の行う体から水を出すというような動作が、たとえ小乗的な立場からの神通(神秘的な働き)であったとしても、運水(水を運ぶ)というような日常の動作こそ、大神通――偉大な神秘的な働きであるという事を学ばなければならない。

日常生活において必要な運水(水を運ぶ)、搬柴(燃料に必要な柴を運ぶ)という仕事というものは、たとえ時代がどう変わろうとも、人間である以上そういう仕事をほっておくわけにはいかない。したがって、その様な日常生活の大切な行いと言うものは、昔から今に至るまで何らかの形で常に続いてきたところのものである。

いかに時代が変わろうとも、次から次へと様々なやり方で行われて来たところのものが、運水とか搬柴と言われる様な日常生活に欠く事のできない営みであって、ほんの一瞬の間といえども、日常生活の大切な行いと言うものは、なくなったり変化したりする事のなかったものが、この神通(神秘的な働き)と言われ、また素晴しい効用と言われるところの動作である。

このような日常生活において、どうしても必要な営みと言うものは大神通(非常に大きな神秘的な働き)である。小乗的な仏教徒が主張するようないわゆる超能力に類するような働きというものとその価値においては比べものにならない。
  
※西嶋先生解説
この様に道元禅師は仏教における神通とは、日常生活において欠くことの出来ない動作を一所懸命やる事だ、と言われておるわけであります。ところが普通はこう考えない。ここでは非常に大切だと思われることを、非常につまらんことだという風に考える。たとえば、大学の先生になって途轍もなく難しい学問をする事だけが大切であって、日常生活の水をくんだり、柴を運んだりというのは、ごくつまらん仕事でやってもやらなくてもいい仕事だという風に大抵は考えている。

あるいは、大芸術家になって一枚が一億も二億もする高価な絵を描く事が非常に意味のある事であって、日常生活において顔を洗ったり、ご飯を食べたりというのはつまらんことで、やらないで済ませることができればやらない方がいいんだという風に考えている場合が多い。

ところが、仏教ではそういうことを考えない。仏教と言うのは現実的な教えだから、人間がどんな事をしなければ生きていけないかと言う事をよく承知している。そうすると、朝、顔を洗ったり、ご飯を食べたり、手洗いに行ったり、会社に行って働いたりというようなことが人間の最大の仕事だ、それが神通だ、それが神秘的な働きだと、そういうふうに言われておるわけであります。その点では、我々が社会生活において色んな仕事をするという風なことも、非常に大切な意味を持つ。それ以外に我々の人生はないという事がはっきり言えるわけです。

ところが「どうも仕事がマンネリでつまらない。もっと面白いことがありはしないかなあ」というようなことを年中考えながら、毎日の生活は「面白くない、面白くない」「退屈だ、退屈だ」と思いながら生きている人というのがわりあい多い。

ただ我々の人生というのは、我々に与えられた朝から晩までの生活以外にない。頭の中で、ああしたい、こうしたいと考えても、結局我々の人生というのは、朝起きてから夜寝るまで、目先の仕事を一所懸命にやる以外に人生はないという事。そういう生活をどう生きるかという事が、我々の人生の非常に大切な部分だという事を、ここでも言われておるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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