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正法眼蔵 神通 14

龐居士蘊公の言葉について道元禅師が注釈されます。

この龐居士蘊公が言われた基本的な理論というものは十分に勉強してみる必要がある。ここで龐居士蘊公が「運水」と言う言葉を使っておられるけれども、その意味は水を運んでくると言う意味である。自分自身で水を運ぶ場合もあれば、人にその水を運ばせると言う事もある。いずれにしても、水を運んでこなければ我々の日常生活そのものが成り立たない。

仏道修行を積むと神通(神秘的な働き)が具わると言われているけれども、結局我々の日常生活において必要な仕事を一所懸命にやるという事が神通仏(神秘的な働きを具えた仏)というものの姿である。この様な理論というものをわかる場合もあれば、わからな場合もあるけれども、これらの水を運ぶという仕事が非常に神秘的な人間の貴重な働きであるという事には変わりがない。

その様な日常生活における動作が仏教にいう神通であると言う事は、人によってはそのことを承知していない場合もある。しかし、人がその事を承知していないからと言って、神通であると言う事実がなくなるわけではない。人は知られども法は法爾なり(法は人が知ろうと知るまいと事実というものは厳然として存在する)。

※西嶋先生解説 
この辺が仏教という思想の非常に大切なところである。我々は普通、人間の頭の中で考えられた事が実際にある事だというふうに考えがちであります。だから「偉い人」とか「偉くない人」とかというふうに頭で考えると、偉い人というものがあり、偉くない人があるというふうに理解して日常生活を送っていくわけでありますが、実態的に、現実的にものを考えるならば、Aの人があり、Bの人があり、Cの人があると言う実態があるだけに過ぎない。

人間が勝手に「偉い」とか「偉くない」と言うふうにレッテルを張って区別しているだけの事であって、本当に偉いか偉くないかは人様々。ただAの人間があり、Bの人間があり、Cの人がおるというふうな、実態がどうなっているかと言う事は、人間がどう思うかとは別に厳然として存在する。その事を「法」と言う。そういうふうな「法」が実際にあると言う事が法爾という言葉の意味です。




              ―西嶋先生の話―
                         --つづき

坐禅の時は腰骨を真っ直ぐ伸ばしている事がかなり大事な問題になるわけです。腰骨と言うのは人間の体の重心。だから腰骨が正しくなっているという事、背骨も正しくなっているし、首の骨も正しくなっているし、体が左右に傾いていないという事にも繋がる訳です。腰骨の状態を正しく保つ事が、体全体が健康になるという事と関係ある訳です。そして自分が健康であるという事と、仏道がわかるという事とは同じ事
 
仏教以外の宗教では、宗教と言うのは大体心の問題だ、魂の問題だと言う。だから体が少しぐらいおかしくっても宗教に一所懸命であれば、人生問題は悩まないという考え方がある訳です。しかし仏教ではそんな事は言わない。人間は生身の体を持っているのだから、生身の体をちゃんとしておかないと人生の悩みは決して解けない、そういう事を主張するわけです。だからそういう点では仏道の真実を何によって得るかと言うと、一面から言うならば体で把むと言う事がある訳です。

坐禅をやっている時の腰骨の正しい状態を毎日続けて、そういう体の状態を維持しながら人生を生きていくと言うのが仏道修行だ、それ以外に仏道修行はないと言う事も言えるわけです。道元禅師が「悟るのは体で悟るんだ」という事をしきりに言われたのは、そういう意味を持っているわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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