トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 神通 13

※本文に入る前に西嶋先生の話です。   

この神通というのはどういうことかといいますと、仏道修行をしていると、普通の人では達成できないような能力が生まれてくる、非常に不思議な神秘的な能力が生まれてくるという考え方が昔からあるわけであります。ところが道元禅師はそういう仏教でいう神秘的な能力というのは、空が飛べるとか、地面の中にもぐれるとか、そういうふうな子供だましの能力ではなくて、日常生活がキチットやれるという事が神通と言われることの実体だと、そういう事をこの「神通」の巻で説かれています。
 
本文に入ります。
龐居士蘊公という人は、釈尊の教えにおける優れた人であった。馬祖道一禅師や石頭希遷禅師の教団において勉強したばかりでなく、そのほか仏道を十分に身につけた沢山の師匠たちに出会って、様々な教えを聞いた人である。その龐居士蘊公がある時言う「仏教でいう神通(神秘的な働き)とか効用(素晴らしい機能)とかというものは、日常生活において飲料の水を運んだり、燃料のための柴をかついだりする事に他ならない」と。

※居士とは、仏教の信者で一所懸命仏道修行はしているけれども、僧侶にならないで普通の社会生活をしている人を言う。



              ―西嶋先生の話―

仏教ではよく「悟る」という事を言うわけです。「悟る」と言う言葉の意味は仏教の真実がわかるという事になる訳です。この「悟る」と言う問題に関連して、仏教とは「心で悟るのか、体で悟るのか」と言う問題もある訳です。元来仏教は「体と心とが一つのもの」と言う考え方が基本にあってその考え方を「物心一如」と言う。

したって理論的に言うならば、仏教は体でも悟るし心でも悟るんだ、体で悟る事が心で悟る事だし、心で悟る事が体で悟る事だという事になる訳です。ただ坐禅をやっての実感から言うと、体で悟ると言う感じの方が強いと言う問題がある訳です。ですから道元禅師も「正法眼蔵」の中でよく「体で悟る」と言う事を言っておられるわけです。そこで体で悟ると言うのはどう言う事かと言うと、坐禅を表現する言葉として「正身端坐」という言葉を道元禅師が使っています

「正身端坐」とは、体を正しくしてきちんと坐るという事です。だから坐禅というは、体を正しくしてきちんと坐る事。そして体を正しくした時は、自分の体全体が正しくなった時それが坐禅であり悟りだと、そういう考え方をされているわけです。毎日自分の体を正しくしているという事は、自分の体を毎日健康に保っているという事。またそういう生活を毎日続けていくならば、人間の体は無限に健康の方向に向かって進んでいくと、そう言う問題がある訳です。
                          つづく--


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-