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正法眼蔵 神通 12

潙山霊祐禅師と二人の弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで無限とか瞬間とかといってみても、この我々の眼の前にある具体的な世界を離れてあるのではない。その毛筋とか芥子粒とかというものが一体何から生まれてきたのかと言う事を考えてみると、我々が日常生活において日常の行動を一所懸命やっていればこそ、手筋の先とか芥子粒という具体的なものも初めて存在し得るのであり、 それらの具体的な事物の存在すると言う事が、永遠と言うものであり、瞬間と言うものがある事につながっていくのである。
 
※西嶋先生解説   
ここで道元禅師が説いておられる主張というものは、一切の物も、一切の時間も、我々が一所懸命に働けばこそあるんだ、我々の働きを他にしてこの世界というものはないと言うこと、これがここで説かれている主張であります。で、これが仏教の主張。だから、何が尊いかと言って、自分達が一所懸命に日常生活をやっていくと言う事が尊いのであり、 それだけが世界が現実にあると言う事の唯一の根拠と言う事にならざるを得ない。

本文に戻ります。
この様に我々の日常生活から得られたものが、我々の行う神通(神秘的な働き)という事が言えるのであるから、我々の日常生活――神通(神秘的な働き)が神通(神秘的な働き)を生み出していると言えるのである。 その点では、過去・現在・未来と言う時間が生まれたり消えたりと言う考え方もあるけれども、そう言う考え方ではなくて、現在の瞬間瞬間をどう生きどう行動していくかと言う事が、我々の人生の全てであり、宇宙のあり方の全てであると言う事を学ぶべきである。

諸仏(真実を得られた方々)は、いずれもこの神通(神秘的な働き)すなわち日常生活における一挙手一投足に遊び戯れて生きていくのである。 日常生活の中で瞬間瞬間に生きていくと言う事が仏(真実を得た人)と言う人格の生活であり生き方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
これで見ますと、すべての人がみんな神通力を持って、あえてこの諸仏だけじゃないという事になりませんか。

先生
そういうことは言えますね。ただ誰でもが自分のやるべきことをきちっとやれるかどうかというとこに問題があるわけです。大抵の人は、こうやりたいと思うけど、どうもやれない、これはやっちゃいかんと思って一所懸命頑張ってるんだけど、ついやっちゃうというのが大体の普通の人のあり方ですよね。神通というのはどういうことかというと、やりたいと思う事がすぐきちんとやれるし、やりたくないと思う事はやらんで済ませることができるという事。

第一、何がやりたくて、何がやりたくないかというのがよくわからんというのが、人間にはありがちなわけですね。そうすると、神通というのは何処にでもゴロゴロ転がっているはずのものですけれども、そう転がっていないという事でもある。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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