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正法眼蔵 神通 11

潙山霊祐禅師と二人の弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

毛筋の様な小さなものも、海の様な無限に広いと感じられる大きなものも、この宇宙の中の様々な現れであるから毛筋も大きな海も決して異質のものではない。毛筋程の小さなものが大きな海をその中に取り込んでいるとも言える。 この我々の住んでいる宇宙の中の様々な出来事は大きいとか小さいとかと言ってみても、そう決定的な区別が出来るものではない。 大きいものも小さいものも、すべて一つにして宇宙の中の様々な様相を示しているに過ぎない。
 
そしてたった一本の毛筋というものが我々の住んでいる全宇宙を飲み込んだり吐き出したりしている時に、この宇宙は現に我々が眼の前にみている通りのものである。様々な変化があり、小さいものがあり、大きいものがあり雑多などう理解していいかわからないような複雑な世界であるけれども、このようなな宇宙の他に、もう一つ別に統一された大きな宇宙があるはずだと考えてはならない。また芥子粒が須弥山という途轍もなく大きな山をその中に入れてしまっているという表現もあるけれども、これもいま述べた考え方と同じように理解すべきである。


芥子粒が大きな山を吐き出し、また芥子粒がこの宇宙の無限の大きな世界を現実に示しているという事も言えるのである。毛筋の先が大きな海を吐き出すとか、芥子粒が大きな海を吐き出すとかという捉え方ができると同時に、それらの状態は瞬間瞬間においても大きな海を吐き出しているということが言えるし、また無限の時間の中においてもその様な変化が行われているのである。この事は現実の世界というものが、瞬間瞬間の世界であると同時に、無限の時間の中における世界でもあると言っているのである。



              ―西嶋先生の話―
                            --つづき

ある人は褒められたいという事に熱心になるわけです。そしてある程度人から褒められ自分も満足がいくと、人から褒められるだけではつまらないと感じて来る。人に褒められる事は結構だがそのために損をしている、中々財産が出来ない。あるいは商売の方でマイナスが出るという事になると、ある時点で人に褒められているだけではつまらない、お金が儲かった方がいいと言う考え方も出て来る。そうすると考え方も変わってくる。

今度は人に褒められる事なんかどうでもいい、名誉なんかどうでもいい、恥じも外聞もなくお金儲けがしたいと、こういう動きもある訳です。そうすると今度は、お金儲けに一所懸命になって目的が達成されてかなりお金が儲かってくると「あいつは恥も外聞もなく、金を儲けた」と言われるのが嫌でまた人に褒められたいと思う、そうするとまた逆方向の「名誉」に動く。たとえば経済界で活躍して財産的には非常に恵まれた人が、そのうちに勲章が欲しくなる。そうすると、今迄儲けたお金を使って今度は勲章をもらおうという考え方でまた名誉の方向に行く。

仏道はどういう立場かと言うと、名誉にも寄り過ぎない、利得にも寄り過ぎないと言う線があると言う考え方をする訳です。その両方から離れた世界が「法の世界」です。名誉、利得が本当の基準ではない。その両極端から離れた真ん中に「法の世界」がある。仏道で「中道」と言うのは、こういう二つの価値の真ん中に本当の拠り所になる基準があるという考え方が基礎にある訳です。こういう考え方からしますと、この「法の世界」の中で生きると言うのが仏道修行の基本になる訳です。法の中における日常生活、社会的な努力と言うものが仏道の世界だと、こういう理解が出来るわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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