トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 神通 8


潙山霊祐禅師と二人の弟子との問答について道元禅師の注釈は続きます。

仏神通(真実を得られた方々が持っているところの神秘的な働き)でない限り、仰山慧寂禅師のように金盥に水を汲んで手拭いを添えて持ってくるという行いもないし、潙山霊祐禅師のように顔を壁の方に向けて寝るというごく自然な行いというものもあり得ないし、顔を洗ってからしばらく静かに坐っているというごく当たり前な、ごく自然な、ごく本来の行いというものがないのである。この様な大神通(規模の大きな神秘的な働き)に覆われて、その中で小神通(規模の小さな神秘的な働き)というものがあるのである。

※西嶋先生解説
小神通というのは、例えば人の気持ちがわかるとか、人の見えないものが見えるとか、人の聞くことができないものを聞くことができるとかという特殊な働きで、そういうものも大神通の中においてのみあり得るのである。

本文に戻ります
大神通は小神通をその中に包みこんでいるけれども、小神通は大神通というものが一体どう言うものかと言う事を理解できない。

小神通とはたとえば、毛筋の先で大きな海の水を全部飲み込むという事であり、また別の例をとるならば、ケシの実の中に大きな山(須弥山)を入れてしまうと言う事が小神通である。また「法華経」の中に出てくる例だが、天使が体の上の方から水を出し、体の下の方から火を出したと言う描写があるが、そのような描写も小神通に該当する。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「自分がない」と言うのは、どう言う事なんでしょか。

先生
苦諦的な考え方からすれば「自分」がある訳です。そうするとねじり鉢巻で「俺が、俺が」という事で頑張るわけです。それと同時に「俺のものが増えればいい、人のものが減ればいい」とまでは考えなくても(笑)「俺のものが増えればいい」と言う考え方も出て来るわけです。

集諦的な考え方からすれば「自分」はないわけです。客観的な立場から考えますと物の寄り集まりじゃないかと言う考え方をする。そうすると「自分という様なものは、どこにもないんではないか」と言う考え方も成り立つわけです。

滅諦的な考え方からすれば、とにかく自分が働らかなくてはどうにもならない。朝起きるとご飯を食べて働いて、昼ごはんを食べてまた働いて、とにかくご飯を食べたり働いたりと言う事でとにかくボンヤリはしていられないと言うのが我々の人生です。そうすると「自分があるのかもしれないし、ないのかもしれない」そんな事はハッキリしなくなってしまう。「とにかく、夢中に生きる人生があるだけだ」と言う事も言えるわけです。

道諦的な考え方からすると、理屈ではどっちとも決められない。苦諦の解釈であれば、自分と言うものははっきりあるし、集諦の解釈だと自分と言うものはない。滅諦の解釈では、自分があるとも言えるしないとも言える、道諦の解釈では、人生の実体と言うものは理屈ではない、だからその理屈ではないものを把むために坐禅がある。そう言う事になるわけです。

四諦論(苦諦・集諦・滅諦・道諦)については、カテゴリ「山水経」18にも西嶋先生の解説があります。 


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


    
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-