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正法眼蔵 神通 4

潙山霊祐禅師は釈尊の直接の後継者である摩詞迦葉尊者を第一代と数えて、第三十七番目の仏教教団の指導者であり百丈禅師から法を伝えられた人である。現在でも真実を得られた沢山の方々があらゆる方角におられるけれども、それらの人々で自分自身は潙山霊祐禅師の弟子には該当しないと考えている人々も、実のところは潙山霊祐禅師の遠い弟子に他ならないのである。

この潙山霊祐禅師があるとき昼寝をしていた。そこへ仰山慧寂禅師がやって来た。すると潙山霊祐禅師は、グルッと寝返りを打って壁に向かって相変わらず寝ていた。

そこで仰山慧寂禅師言う:自分、慧寂は和尚の弟子であります。背中を向けて寝ておられるのは失礼ではないでしょうか。

これを聞いて潙山霊祐禅師は起き上がろうとした。ところが仰山慧寂禅師は師匠の昼寝の邪魔するのも悪いと思ってその部屋から出ようとしたのであるが、潙山霊祐禅師が仰山慧寂禅師を「慧寂」と呼び止めた。呼び止められたので、仰山慧寂禅師は部屋に留まった。

潙山霊祐禅師言う:わしはいま夢を見た、その夢の話をお前に聞かせてやろう。

そこで仰山慧寂禅師は頭を下げて、師匠が何を言うか一所懸命それを聞こうという態度を示した。

ところがちょっと気持ちが変わったと見えて潙山霊祐禅師言う:わしのためどんな夢をみたか、お前が説明してみろ。

ところが、仰山慧寂禅師は師匠の夢はこういうものでありましょうと言う事を示す意味で、金たらいに水を入れて、それから一本の手ぬぐいを持ってその場にやってきた。そこで潙山霊祐禅師は、その金だらいを使い手ぬぐいを使い顔をきれいにした。

潙山霊祐禅師が顔を洗って、ほんのわずかの時間坐っていたところが、そこへ香厳智閑禅師がやってきた。香厳智閑禅師もやはり潙山霊祐禅師の弟子であった。

そこで香厳智閑禅師に潙山霊祐禅師言う:わしは今ここで慧寂と一緒に、一段と優れた神秘的な働きと言うものを実際に行っていた。その中身の素晴らしさと言うものは、狭い考え方で生きている人々と同じではない。

香厳智閑禅師言う:自分は下手にいて、師匠と仰山慧寂禅師とがどんなやり取りをしていたのかよく承知しおります。

そこで潙山霊祐禅師言う:それではお前も試しに何か言ってみろ。

すると香厳智閑禅師は何も言わず、早速お茶を一服たてて、それを師匠のところへ持って来た。

そこで潙山霊祐禅師言う:この二人の弟子の神秘的な働き、並びに智慧と言うものは、釈尊の弟子であった舎利弗や目犍連と言う優れた弟子達よりもさらに優れている。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お茶を出した一件ですね。これはそういう環境にあって、弟子と師匠とまあ一所懸命やるという事は自然そういう事になるんでしょうね。お茶を出したいと。それをやらないと、いわゆる気が利かないという事になるし、気働きがないという事ですね、怠慢ですね。

先生
ただそれと同時に、心の落ち着きというか、体の落ち着きというか、智慧というか、そういうものと関係あると思いますよ。だからどんなに頭がよくても何をやらなきゃならんかがすぐ出てくるかどうかはわからんわけでね。つまり哲学書を何万冊も読んだところで、師匠がお茶を飲みたい時にちゃんとお茶が出せるかどうかという事になると、これは中々そうはいかんだろうと思います。

だからそういう点では、法という現実の実体というものがわかっているかどうかという事と関係があると思います。我々が坐禅をやるのは、こういう智慧を得るためにやるわけですね。頭がよくなるために坐禅をするわけじゃなくて、気持ちが普通の状態になって、今何をやったらいいか、やらなきゃならないかが直観的に出てくるか出てこないかが、仏道修行の分かれ目という事になるわけです。だからそういう点では、単に頭が働く、働かないだけの問題じゃない。

質問
頭よりは、むしろ根底を流れているものは、相手に対する愛情ですね。

先生
う-ん、愛情だけでもないんだな。というのは、愛情ってのは憎しみと背中合わせなんですよ。これは面白い理論だけど、これはほんとだと思う。つまり、愛情、愛情つて言うけれども、愛情と憎しみは必ず背中合わせで一緒になってるんですよ。だから恋愛関係にある人が、仲違いをすると途轍もなくひどい仲違いをするというのは「かわいさ余って憎さが百倍」って、これも講談によく出てくるけど、この「かわいさ余って憎さが百倍」ってのは人間の真実ですよ、愛情の真実ですよ。

だから愛情、愛情という事で、愛情に頼ろうとすると、今度は憎しみが出た時どうにもならんというのが、我々の日常生活ですよ。だからそういう点では、愛情、愛情という事で、愛情だけが何よりも大切なんだという考え方は、本当に現実の問題と合致しているかどうかという点になると、やや首を傾げなきゃならん問題があると思います。

だからその点では、愛情ってのを強調するのはキリスト教信仰の中にあるわけですけどね。キリスト教信仰は愛情を強調しない限り、厳しすぎて生きていけないという問題があるわけですよ。だから、西洋思想の中で愛情が非常に重視されたのは、愛情がないと争いだけが残って生きていけないという問題があるわけですよ。だからそういう点では、西洋思想と仏教思想との関係というものは、そういう問題やなんかもかなり面白い問題を持っているわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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