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正法眼蔵 神通 3

仏(真実を得られた方)は、神通という神秘的な働きを朝から晩まで常に実行しているが、その真実を得られた方は、神通という神秘的な働きをしているという事を意識していない。また神通という神秘的な働きは、瞬間瞬間に行っては消え行っては消えて行くものであるけれども、その様な働きが消えるという事が真実を得られた方を傷をつけると言う事は少しもない。

そういう神秘的な働きというものは、精神的な世界においても行われるところであるし、物質的な側面においてもやはり同じように行われる。仏道修行をし体験していくと言う事と、神秘的な働きというものは同一の場面で現れるものである。インドの北方に天高くそびえるヒマラヤ山と言う具体的な事実と、釈尊の前身であると言われている雪山童子の宗教上の事実も全く同じものであるし、木や石も全く同じものである。そういう具体的なものと同じような何の変哲もないもの、しかもどうにも否定する事の出来ない厳然なる事実というものが神通であり神秘的な働きというものの実態である。
 
過去における真実を得られた方々はいずれも釈尊の弟子であり、ある場合には袈裟をささげて釈尊のところに近ずいて来、塔をささげて釈尊のところに近づいていくという場面があった。こういう場面に出会った場合に釈尊が「真実を得られた方々がもっている神秘的な働きと言うものは、不思議なり(頭で考えようとしてもなかなか考えきれない性質のもの)と言われた。

この様に考えてくると、現在の瞬間、あるいはこれから来ようとする未来に関連しても、過去の真実を得られた方々について述べたと同じように、やはりそれぞれの真実を得られた方々が、具体的な日常生活において神秘的な働きを現在もやっているのであり、また今後も続けていかれるのである。



              ―西嶋先生の話―

不思議というのは、思義せずという事で、ものを考えないというのが本来の意味であります。今日でも「不思議だ、不思議だ」ということで、何か非常に奇妙だ、どういう原因なのかよくわからない場合に「不思議」という言葉を使いますが、本来は頭の中で考えられるものではないという事を「不思議」という言葉で表しているわけであります。

この不思議という考え方は仏教にはかなり特有な考え方でありまして、我々の住んでおる世界というのは、全部が全部我々の頭で考えきれるものではないという主張が仏教にはあるわけであります。我々の頭に及ぶ範囲というのは、そうたいしたところまではいけないわけであって、頭で考え抜けるものというのはごく一部でしかない。それ以外に非常に大きな頭では考えることのできない世界、言葉で表すことのできない世界というものがあるというのが、釈尊の教えであり仏教の立場であります。

我々は明治維新以来、西洋流の頭で考える文化というもので教育を受けてきましたから、その点では、大抵の人が何でもかんでも頭で考え抜けると思っている。だからわからんことは、本屋に行って本を買ってきて読めばわかるというふうに思い込んでいるわけでありますけれども、我々の日常生活においては、頭で理解しきれないものが無限にある。そういう事実をしっかりとつかむという事が仏教というものを理解する一つのあり方、という事にもなるわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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