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正法眼蔵 神通 1

「神通」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

この「神通」というのはどういう意味かと言いますと、「神」という字は神秘的という意味を現しているわけであります。それから「通」というのは能力という事。だから「神通」というのは、神秘的な働き、あるいは神秘的な能力という事を意味するわけであります。最近はあまり神通力というふうな言葉は耳にしなくなったわけでありますが、我々が子供の頃は神通力という言葉はよく子供の間では使っておった。

だから「神通力で空を飛ぶんだ」とか、あるいは「神通力で相手を倒すんだ」とか、そういうふうなことで神通力という言葉をしきりに使っておったわけであります。今日は神通力という言葉はほとんどなくなりましたが、超能力という言葉は最近よく使われる。今日の言葉で言えば超能力という言葉がこの神通という言葉に当たろうかと思います。

この「神通」の巻でどういうことを言っておられるかと考えてみますと、仏教では古来から、普通の人では中々得られないような能力というものが、仏道修行によって得られると言う考え方があるわけであります。人の気持ちがわかるとか、あるいは人に見えないものが見えるとか、あるいは人に聞こえないものが聞こえるとか、その他さまざまの特殊な能力が仏道修行によって具わって来るという考え方があるわけであります。

道元禅師のお考えは、そういう普通の人にはなかなか得られないような特殊な能力というものは、仏教における能力としては、それほど大したものではない。一番大切な能力というものは何かというと、普通の事がキチッとできるという事が一番大切な能力であり最高の能力だという事をこの「神通」の巻で説いておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―

ここのところ毎日のように企業と官僚の癒着問題が新聞に出ておるわけでありますが、ああいう記事を読んでいますと我々が住んでいる現在の日本社会には、正しさというものに対する感覚がなくなってしまっているのかという気がするわけであります。古い言葉で最近はあまり見かけませんが、かつて「正義感」という言葉があった。正しさに対する感覚という意味。

ところが最近は正義感なんていうものはどっかへ行ってしまったんではなかろうかというふうに感ずるわけであります。新聞でしきりに噂になっておる人たちも、正義感という風なものが多少残っておれば、いろいろなことをやっている途中で、「あ、これ以上はやり過ぎだな」という事を感じたかもしれない。ところがそういう正義感というものが全然残っていないと、「ここまでやれる」「ここまでやれる」という事で、どんどん、どんどんとめどもなくやりたいと思う方向に進んでしまって、結局ああいう形になってしまったという事が言えようかと思うわけであります。

そうすると我々はどの辺までが正しさであり、どの線から先は正しくないんだという風な感覚というものを持っていないと、誰でもやることが間違ってしまうという事があるわけであります。新聞に載っている人たちだけの問題ではなしに、我々は誰でも、どこまでがやっていいのか、どこから先はやってけないのかという感覚を持っている必要があると思います。

我々が先ほどまでやっていた坐禅も、結局は体を正しい状態に置くことによって、どういう事が正しいのかという事を体全体で勉強しているという事にすぎないという面があります。だから体を正しい状態に置いた時間を持つことのできる人は、人生のいろんな場面において「これはやっていい」とか「これはやっちゃいかん」という風なことが理屈ではなしに体全体の実感として出てくると言う問題があるわけであります。

                   つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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