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正法眼蔵 仏教 32

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

したがって一般的に言えることは、三乗(声聞・縁覚・菩薩)という三種類の仏教の修行の仕方に表わされているところの仏教哲学や、十二分教(十二種類の分類で説かれているところの仏教経典)というものは、釈尊の目の玉である、釈尊のものの見方の基本である。三乗十二分教という教えが実は釈尊の見方の基本であるという事がはっきりと分かってこない者は、どうして釈尊の弟子だと言う事ができよう。この様な理論というものを自分のものとしてしっかりと持っていない者は、どうして釈尊の正しいものの見方というものを一系に伝えて来たと言う事が言い得よう。

釈尊が説かれた正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)と言うものを、体でつかんでいない者は、七仏(釈尊と釈尊以前に真実を得られた六人の方々)の教えを正しく受け継いできた後継者と言うわけにはいかない。

             「正法眼蔵仏教」
             1241年旧暦11月14日
             京都の興聖寺において衆僧に説示した。



              ―西嶋先生の話―
                         --つづき

ところが、例えば欧米の人々、何千年もの間キリスト教信仰で生活を貫いてきた人々の間では、この物と心とが一つだとか、体と心とが一つだという風な考え方が、非常に不思議な考え方として映るようであります。だから毎土曜日、アメリカ人とその他の欧米の人を相手にして仏教の話をしておるわけでありますが、この体と心とが一つだという考え方を話すと、彼らは非情にうれしそうな顔をする。そしてまた今まで聞いたことのないような非常に珍しい考え方として受け取る。

それはどういうことかというと、彼らのものの考え方は、心と体とは完全に別のものだ、そうして体の力をなるべく抑えつけて、精神的なものを発揮しなければならんという考え方で、小さい時から教え込まれておるわけであります。しかし年齢がだんだん進んでくると、どうもそれは本当ではないらしいという事は、色々な経験を通して分かってくるわけでありますが、それと同時に、やはり子供の時から教え込まれた、魂が大事だ、心が大事だという考え方からなかなか脱け出せない。

物と心とが一つだというような考え方を耳にすると、今まで一度も聞いたことのない教えという事で、非常に珍しい考え方として受け取るというふうな面があるわけであります。だからそういう点では、物と心が一つだという仏教的な考え方が今後欧米の考え方の中に入り込んでいった場合に、非常に大きな変化が現れるだろうということは想像できるわけであります。

その点では我々も仏教を勉強していく上においては、常に物と心とが一つのものだという考え方を離れては、仏教そのものがどっかへ行ってしまう。そういうことを常に考えておく必要があるというふうに思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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