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正法眼蔵 仏教 31

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

我々が住んでいるこの宇宙と言う経典は、この宇宙が真実を説いている時間と言う意味を持っている。我々の人生は常に行われており、常に生命が燃え続けているのであるから、法を説くまいと意図してもそれは出来るはずのものではない。人生そのものが法を説いている事であり、人生そのものが経典そのものである。この様なところから、釈尊は自分の意思として自分の主張としてこの経典を説くと言われたのである。

したってこの天地のすべてが、釈尊の「ことさら説く」の意味であり、天地のすべてが釈尊の教えを説いている事に他ならない。過去から今日に至るまで、仏(真実を得た人)がたくさんいるけれども、あの仏もこの仏も、それぞれこの宇宙と全く同じ状態で教えを説いたのである。この我々の住んでいる世界もそれ以外の世界も同じ様に、釈尊の教えをこの宇宙を通して説き続けているのである。したがって紙に字を書いた経典も宇宙そのものも、釈尊の教えそのものと言うことが出来る。

銘記せよ。この世に釈尊の教えは無数に存在するけれども、それは一体何か。それは目の前の仏教の儀式に使う竹箆であり払子である。目の前にある具体的な事物そのものが、釈尊の教えに他ならない。

※西嶋先生解説
これが仏教思想の基本という事になるわけ。普通、教えというのは文字に書いてあって本を読めばわかるという風に一般には考えられております。西洋思想では大体そういう思想。だから本当の事が書いてある本がどっかにあると思って、みんな一所懸命見つけて回るわけです。ただ釈尊が説かれたのは、本当の教えというものは我々の日常生活の中にある。我々がどう生きるかという生き方の中に本当の教えというものが含まれておる。



               ―西嶋先生の話―
                            --つづき
  
人間というのはかなり能力が弾力性のある生き物でありますから、訓練次第ではかなり難しい仕事もこなせるという能力があるわけであります。だから手順がおかしくっても、伝票の形式がおかしくっても、訓練次第で間違いを起こさないでやれるという事はあるわけでありますが、そういう個人的な能力というものに頼っておると、仕事が大きくなり、たくさんの人が一緒になって仕事をやっていく場合には、全部が全部そういう訓練の行き届いた人ばかりで仕事をするというわけにはいきませんから、どうしても手順の不備、あるいは形式の不備というものが間違いを起こす原因として出てくる、こういう問題もあるわけであります。

だからそういう点で、我々が生きておる現在の社会というものを考えていく場合にも、心の問題として考えると同時に、物の問題として考えていかないと、本当の実情というものがわからない。こういう事が仏教という考え方の基礎にはあるわけであります。

明治維新以前には千何百年かにわたって仏教という考え方が日本国民のものの考え方を支配しておったわけでありますから、今日「物心一如」とか「身心一如」とかという考え方を我々が耳にした場合に、そう不思議には感じない。なぜそう不思議には感じないかというと、我々の生活の中には、物と心が一つだとか、心と体とが一つだという考え方がいくらもしみ込んでおって、我々はそういう考え方に比較的日常生活で慣れておるから、「物心一如」とか「身心一如」とかという考え方がそう不思議な、そうおかしな考え方としては映らないという事情があるわけであります。

                       --つづく


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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