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正法眼蔵 仏教 29

釈尊の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

この世の中に生きている一切のものを教化して、すべて釈尊の教えの世界に入らせようと努力することも具体的な場面において、釈尊の説かれた十二分教を説く事に他ならない。我々の日常生活そのものが、釈尊の説かれた経典を説くという事と別のことではない。この世の中に生きている一切のものは釈尊が説かれたこの教典に従って生きているという事に他ならない。

釈尊が一切の生きとし生けるものに合わせて経典を説くと言っておられるけれども、その環境に合わせて説くという事はどいう事かというと、徹底的に自分以外のものに随順することであり、徹底的に自分自身に随順することであり、徹底的に周囲の状況に随順することであり、徹底的に自分の生命に随順することであり、徹底的に釈尊に随順することであり、徹底的に具体的な現実の場面に随順することである。

※西嶋先生解説
だからこういう説き方というものは、普通の常識的な説き方で理解しようとすると理解できない。むしろ我々の日常生活がどういうものかと考えていくと、自分自身だけではない。自分自身だけで生きていこうとすると、周囲とぶつかってどうも生きにくい。そうかといって、自分以外のものだけについていこうとすると、主体性がなくなって何のために生きているのだか分からない。そうすると、自分自身というものが具体的に生きていくためには、きわめて複雑な、一つの側面だけでは限定できないものが我々の人生。そういうものが我々の人生だと言う事を主張されたのが釈尊の教え。

本文に戻ります。
この様な形で、生きとし生けるものは生きていくのであるけれども、例外なしに言える事は自分自身が現にあるのであり、この場所において、この瞬間においてあるというあらゆる生き物に共通のあり方というものは外すことができない。そのように一つの共通な状態というものを外すことができないから、個々の生き物の生き方というものは、結局のところ、釈尊が説かれた経典、九部法に説かれているところの個々の様々の主張や様々の教えというものと別のものではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
よくお釈迦様の上に輪が見えるとか、キリスト教にもありますね。ああ言うのは心のエネルギ-でオ-ラが出来る、これはかなり修行をしないと出ないんですか。実際に現在でもそういう事があると聞いたんですが・・・。

先生
いや、私はそういうものは全然信じないね。後の人がどういうふうに表現しようかと言う事で一つの方法としてそういう表わし方が行われただけのものでね。何か特別の光が偉い人の頭の周りに出て来る事はないと思いますね。「ない」と主張したのが仏道だと思います。仏教以外の宗教ではよくそう言う事を言うわけです。「他の人とは違うんだ、普通の人とは違うんだ」と言う事を言いますけれども、釈尊の場合は本当の人間になるため努力された。

そして本当の人間になると、かなり高尚な状態になるもんだという事を主張された。それは決して人間以外になるのではなくて、本来人間は非常に高尚なものです。ところが、自分でかなり程度を下げて「苦しい、苦しい」と言っているだけです。だから「本来の程度に戻せ」とこう言う事を釈尊は言われた。この様に見ていいと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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