トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏教 28

釈尊が言われた。   
自分が説いているこの九種類の経典は、この世の中の生きとし生けるものの役に立つ様にそれぞれの実情に即して説いたものである。日常生活において行動を通して仏道を探求して行く大乗仏教に入り込むことにより幸福になる事が仏道修行の基本であり、経典はそういうねらいから説く。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
ここでこの釈尊の教えから汲み取らなければならない事は、現在の時間、この場所における自分自身が仏であり釈尊と同じ人格である。釈尊の顔、釈尊の姿、釈尊の体、釈尊の心が現に今ここに自分自身として現れている。この様に現に生きているところの自分自身というものが、やはり釈尊の説かれた教典、九種類の教えそのものである。

釈尊が何を説かれたかと言えば、我々自身の事を説かれたのであり、我々自身が現在この場所においてどう生きるかと言う事を説かれたに他ならない。我々が口にするところの言葉、あるいは我々が読むところの経典の一字一句というものが釈尊の教えそのものである。それは、現に今ここに生きている自分自身と関連した問題であるから、釈尊が言われた様に一切の生きとし生けるものの環境に従って説かれた教えである。

この世の中の一切の生きとし生けるものが現に生きている様子はどういう事かと言うならば、現在のこの場所において生きると言う事実があるのである。生きるという事は、空に頭の中で考えられるだけの問題ではない。生きるという事は、今ここで現に生きていると言う事が生きると言う実体の根本である。

生きるという事もこの場所から生まれ出て来るのであるから、この現実の世界において経典を説く事に他ならない。そして死と言うものもこの我々の現実の世界において起こるものであるから死というものも、この釈尊の説かれた教典を説く事に他ならない。単に生とか死とかと言う問題だけでなしに、現在の瞬間、瞬間における様々な動作というものも、やはり釈尊の説かれた教えを実際に説くという事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「本来の自分にかえる」という事はどういう事なのか、言葉で説明していただけますか。

先生
これはね、簡単な表現をすれば、人間は「オギャ-」と生まれた時にはアカがついていないんですよ。ところが家庭で育てられる、学校で育てられる、社会で育てられるとだんだんアカが積もり積もってくるわけです。で、そのアカを洗い落とすというのが本来の自分にかえるという事の意味です。

質問
そうしますと、赤ん坊で社会生活はできないという事に理屈ではなりますね。やっぱりいろいろな智慧とか力とか…赤ん坊が成長したままで戻せと。

先生
いや、そういう事ではなしに、本来の姿でアカが付かない様に成長していけば一番結構なわけです。ただ人間というのは様々な思想があり様々な環境がありますからどうしてもアカがついてしまうんです。だから物心がついてある程度の年齢に達してくると、良いことも覚えているけれども悪いことも覚えている、正しい思想も持っているけれども誤った思想も持っている。その誤った思想を洗い落とす。あるいは生活習慣の問題にしても、良い習慣もあるけれども良くない習慣もたくさんしょっている。その良くない習慣を洗い落とすという事もあるわけです。それが本来の自分にかえるという事の意味です。

質問
感情というのはどっちですか。

先生
感情というのは仏道の立場からいきますと、本来ないものというのが仏道の立場です。感情というのはどういう事で出てくるかといいますと、自律神経のバランスという問題と関係がある。自律神経がバランスしているときには感情的にはゼロなんです。ただ人間というのは感情を誇張して、非常にエキサイトしたり非常に悲観してみたりというのが好きですから、ある場合には大いにエキサイトして張り切ってみたり、ある場合にはすっかりしょげってしまって「もうとてもだめだ」と悲観してみたりという事が多いわけですけれども、そういうプラスマイナスの動揺を感情というんです。

ですから仏教の立場からしますと、自律神経がバランスしている状態は感情のない状態。だから感情のない状態というのが人間の本来の状態だということ。これは今日の時代思想から言うと違うんですよね。今日の時代思想から言いますと、人間は感情的なものである。したがって、大いに感情を誇張して人づきあいをすることが人間らしい付き合いであると、こういう主張がありますけれども、仏教の主張はそういう主張と少し違うというのが事実としてあると思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-