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正法眼蔵 仏教 27

また九種類の経典というものがある。これは九分経(九種類に分かれた教え)というべきであろう。
その内容がどういう内容を持っているかというと、1スートラ(普通の経典)ガ-タ-(詩句の形で説かれた経典)本事(過去における仏教に関連した出来事)本生(釈尊その他が過去においてどういう生き方をされたかという過去の物語)未曾有(奇跡に類するような出来事)因縁(仏教に関連した様々の物語)譬喩(釈尊の教えを譬喩の形で説かれた部分)ゲ-ヤ(詩の形で説かれた釈尊の教え)ウパデシヤ(論議の形で説かれた釈尊の教え)こういう九種類が九部と言われる。

各種類がそれぞれ九種類の分類を持っているから、九・九で八十一の分類となる。それからまた、この九種類の分類というものが独立の一つの種類を形成しているわけであるから、それを全部寄せ集めれば九種類という事になる。ところが、その九種類の分類というものがいずれも釈尊の教えという点では変わりがないから、結局は九種類の分類もたった一つの分類に収まるという性質を持っている。そういう共通の性質があって、同じような仏教経典であればこそ、九つの分類があり、九種類に分けられているという事になるのである。

九つの分類というものも釈尊の教えという共通の性質を持っているのであるから、すべてがたった一つの種類の経典だという理解の仕方もできる。この様に全てがたった一種類の釈尊の教えだと言う数え方も出来るし、あるいはまた九種類の分類がそれぞれ九種類に分かれているから、全部で八十一に分かれると言う数え方もできる。

その様に一種類だとか八十一種類だとかという数え方はできるけれども、結局何を言っているかというと、眼の前に経典が置かれているとするならば、この経典が十二分教であり九分教である。経典を読んでいる自分自身が十二分教であり九分教である。眼の前に払子や旅行用杖があるとするならば、それが十二分教であり九分教である。釈尊の説かれた教えその眼目として伝えられているものが十二分教であり九分教である。そういう点では一切のものが経典だと言う捉え方もできる。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「大法輪」と言う雑誌の今週号を見たら、死後の世界の特集がありました。因果報酬・輪廻・縁起とか、そういうものを断ち切るためには、仏にならなければいけないと・・・。たしかお釈迦様はそういう余計な事を考えるなと言って、死後の世界を教えるのは好まなかったと・・・。

先生
輪廻転生と言う思想は仏教が生まれる以前にインドで非常に盛んだった教えです。つまり「人間は死んでも次の生涯があるんだ」と、そう言う考え方が古代インドでは非常に盛んだったわけです。釈尊はその考え方を肯定されなかった。そこに仏教の特徴があるわけです。ただ中国でも日本でも、同じインドの思想としていろんな問題を考えた為に、また仏教経典の中にもそう言う輪廻転生の考え方が出てきている為に、釈尊の説かれた教えとそれ以前の古いインド思想とがかなり混在して我々の時代に伝えられていると言う問題があるわけです。
    
だからそういう点では、輪廻転生の思想を仏教は批判された。そういう事が歴史的に言えると思います。それを我々の実感として感じるために坐禅をやる。坐禅をやっている時には何もないわけです。輪廻転生なんて言う事は出て来ない。いくら思おうと思っても、そんな事はとうてい信じられないと言う形でしか坐禅の境地と言うものは出て来ない。釈尊が坐禅に頼られたという事は、そういう頭の中で人間が考え出した思想を払い落とす為に坐禅をやられた事でもあるわけです。ですから仏教の基本思想と言うのは、輪廻転生思想とは別の思想だとそう言うふうにはっきり見ていいと思います。

質問
私は本当を申しますと、キリスト教のカソリックを信じているものです。だんだん年齢も高くなってまいりますと、何か今迄見落としたものがあると言う事を最近痛切に感じましてね。今日うかがいまして、法話と言うものを生まれて初めて聞かせていただきました。
私にとって一番初めキリスト教の門をたたいた時の感覚的なものと言うのは、非常にバイブルがナイ-ブな書き方でよくわかったんですね。今お話をお伺いし非常に深い事を言っているのはよく分るんですが、一言一言が難しい単語がありすぎると言う感じがして、もうどうしようかしらって、今すごい深さと言うものをとても感じているわけですが・・・。
 
先生
私の話を最初に聞かれた時は、大抵の人が「分らん」と言いますよ。

質問
ああ、そうですか。

先生
それで少し回数を重ねますと、何となく少し分ってきたなという事で、少しずつ分って来ると言う事が実情だと思います。ですから最初聞かれて「分かった」と言う感じの人は殆どいないんじゃないかと思います。なんだか訳のわからない事を言っていると言う事で(笑)我慢して聞いているうちに、少しづつわかって来る、そう言う事だと思います。
 
質問
それじゃ安心しました。 ありがとうございました。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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