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正法眼蔵 仏教 26

このような形で青原行思禅師に対して石頭希遷禅師が礼拝した動作、南嶽譲懐禅師が師匠から仏教の大意というものを聞かれたときに「言葉で表現しようとするとどうもぴったりしません」と言われた言葉、玄沙師備禅師が「一切要らない」という主張をされた、このような思想を実際に行動の上で、言葉の上で取り上げて、実際に活用することができるという事は真実をつかんだ人にだけできる事である。

その当事者が一人の人間として堂々として行動している、堂々と主張しているという事に他ならないのであって、真実を得られた方々がもう一人の自分を自分の中に持っていて、どっちにしたらいいかわからないとウロウロしている状態とは違う。何か自分以外に自信を持つ、あるいは自惚れを持つところのものがあって、それをあてにしているという事でもない。仏道修行を行った結果、到達する境地とは、自分自身が自信を持って生きているという状態に他ならない。

現在の瞬間において一所懸命に生きていると言う事がそれぞれの人の人生の実態であって、何かが起こったという形の状態ではない。ではまさにその瞬間とは一体何かと問われるならば、そういう理屈は一切要らないということが回答になる。



              ―西嶋先生の話―
                       --つづき

我々は現実の世界(法の世界)に生きているのだから、まず現実の世界(法の世界)の実体を知らなければならない。その現実の世界(法の世界)を知るためには、坐禅という修行法がある。だから我々が坐禅をやることによって何をやるかというならば、悟りを開くとかというつまらない目的でやるわけではない。我々が「どんな世界に生きているかという事を体全体で実感する」と言うのが坐禅のねらいという事になるわけです。

そういう現実というものが理屈ではなしに体全体、心全体でわかってくると、初めて仏教と、断見と、常見とこの三つの考え方がどういう関係にあるかという事がわかってくる。これが釈尊の説かれた主張です。私が仏教を教えていただいた沢木老師も提唱の中では、必ずこの仏教思想が断見外道でも常見外道でもないという事を非常に強く主張されたわけです。

仏教の基本的な思想とは我々が社会生活をしていく上においても、まず自分自身の体と心が正しくないと碌な事はないという事を言われた。なぜかと言いますと、心が正しくない、体が正しくないという事があるならば誤った判断しかできない。誤った判断しかできないという事は、我々の一生がどこに行ってしまうか見当もつかないという事になるわけです。

そういう風な問題から釈尊は我々にまず坐禅をして、心身を正しい状態に置くという事を勧められて、どれがいい、どれが悪いという事を論議するよりは、自分の体が正しい状態に置かれ、自分の心が正しい状態に置かれているときには、悪いことはできない状態にある、いいことをやらなければならんと思わなくても自然にいいことしかできない状態にあるのが人間の本来の姿である。

したがって、いくらいいことをやりたいと思っても、自分の体の状態、心の状態が正しい状態でなければ決して出来るもんではない。また自分体の状態が正しい状態に置かれているならば、悪いことをやりたいと思っても絶対にできない、やる気が起きない<というのが実情だ。そういう基本的な観点から、我々の人生をもう一度見直すという事をされたのが釈尊の教えであるし、また達磨大師の教えでもあるし、道元禅師が日本にもたらされた教えであると、こういう事が言えるわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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