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正法眼蔵 仏教 24

十二分教(十二部経)にはたくさんの内容がある、その中の一端をこれから述べてみよう。十二分経はなかなか聞く機会がない。釈尊の教えが世の中に行きわたっている時には、この十二分経と言う言葉を聞く事が多い。ところが釈尊の教えが衰えてすでになくなってしまった時代には十二分教と言う呼び名を聞く事ができない。また釈尊の教えが一般に広まっていない時代にも、この十二分教と言う言葉を聞く事ができなかった。

長い間にわたって善い行いをすることによって釈尊にお会いすることができるようになった人が、この十二分経という言葉を聞く。そして、一度でもこの十二分経と言う言葉を聞いた人は、間もなく「最高にして均衡のとれた正しい真実」つまり釈尊の説かれた教えをすっかり理解することができるのである。この十二種類というものはそれぞれが経典と言われている。十二の種類に分かれた教えとも言われ、また十二種類に分かれた経典と言う呼び名もある。

そして十二に分かれたそれぞれの種類の経典の中に、また同じ様に十二の分類があるから、十二に十二を掛けると、百四十四と言う数え方も出来ると同時に、十二の経典というものがそれぞれ十二の分類の教えというものを同時に含んでいるから、結局たった一種類の教えだと言う数え方もできる。しかしながら、ここに言う百四十四とか一と言う数字は、単に数が多いとか、少ないとかという事で、億より小さい数とか億より多い数とかというふうな、数が多い少ないというような捉え方ではない。



              ―西嶋先生の話―

中道思想とはどういう事かといいますと、別の言葉で言えば断見外道(死後は無になる)という考え方と、常見外道(死後、肉体は滅びても霊魂が存続し永遠に生きられる)という二つの考え方を離れているということ。この二つの考え方は、今日我々の住んでいる世間においてはまず殆んどと言っていい位の人がどちらかの考え方を持っているというのが実情です。

今日は仏教が必ずしも盛んな時代ではありませんから、今日の社会に生きている人々の間で仏教を信じている人は非常に少ない。仏教を信じない人々が何を信じているかというと、ある人は「断見外道」を信じているし、ある人は「常見外道」を信じているわけです。 ※外道(仏教徒の立場から見て)仏教以外の教え

もっと現実的に言いますと、常見外道とは一般の普通の宗教を信じる立場です。こういう事をしてはいけない、ああいう事をしてはいけないという考え方で生きるわけです。それに対して断見外道とは、一般の普通の宗教を信じない立場です。それは全部でたらめだ、そんな宗教なんていうのは大体いい加減なものであって、本当のことは何もないんだ。したがって、やりたい放題やって一生を終るのが一番いい生き方だという考えです。この二つの考え方が我々が今日生きている社会の中心をなしているという事が言えるわけです。

ですから、この世の中にはいわゆる善人という人がいて、こうしなきゃならん、ああしなきゃならんというふうにいつも良心的に生きようとしているわけです。で、自分自身が良心的に生きているばかりでなしに、人に対してもこうしなきゃならん、ああしなきゃならんというわけです。不思議なことに、いわゆるこの世の中の善人という部類に属する人々は人に対して非常に厳しい。

そして自分自身に対しては「俺は人間なんだからちょっとこのくらいは我慢してもらえるはずだ」「俺は善人なんだからこのくらいのことはやってもそう咎めは受けないんだ」と言う生き方をしているわけです。ですから、善人は本質的に考えてみると必ずしも善人ではない。自分で善人だと思っているだけの場合が非常に多いわけです。それど同時に、今度は「そんな善悪なんかどうでもいいんだ、やりたい放題で生きていくんだ」と言う人々は、案外気が小さくて人のことを気にすると言うところもあるわけです。

ですから悪人が必ずしも悪人ではない。そしてそういう関係からしますと、この世の中にはいわゆる自分は善人だと思っている人と自分は悪人だと思っている人とが一緒に寄り集まって、くんずほぐれつの生活をしていると、これが我々の生きている社会の実情だという事が言えるわけです。

                     つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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