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正法眼蔵 仏教 23

本文に入る前に西嶋先生の話です。
この「正法眼蔵」の仏教の巻というのは、仏教哲学と実践というものとの関係を説いておられるわけでありますが、その仏教哲学の代表として三乗というものをこれまで説明してきたわけであります。しかしそれと同時に仏教哲学のもう一つの現れ方として、経典というもの、十二種類の形に分けたところの経典というものも、同じように仏教哲学の代表としてここに挙げて説かれるわけであります。

なぜ道元禅師が「正法眼蔵」の中でこの十二分教を取り上げられたかと言いますと、普通、十二分教というふうな経典の教えというものは小乗の教えであって大乗仏教ではあまり問題にしないという考え方があるわけであります。ところが道元禅師は小乗仏教も大乗仏教もすべてが釈尊の教えだという考え方を持っておられたから、小乗仏教の教えの中でも仏道の説明に役立つものは遠慮なく採用された。だからここのところでは、一般には小乗仏教の教えとされている十二分教に関する論述というものを取り上げて仏道の説明に使われたという事が言えるわけであります。

本文に入ります。
経典にはその性質によって十二種類の分け方があり、その十二種類の分け方によって取り上げられた経典を十二分教という。古代インド(サンスクリット語)では経典の事をス-トラと呼び、漢字に直して修多羅と表わし基本的な問題を説いた経典という意味で線経とも呼ばれる。

1ス-トラ(基本的な考え方の書いてある経典)・ゲ-ヤ(詩句によって経典の内容を述べる経典)・ヴイヤ-カラニヤ(授記――釈尊が弟子に対してお前は将来仏になるであろうと書き記した経典)・4ガータ-(独立の詩の形でこの世の様々の事を説いた経典)ウダ-ナ(人から説法をお願いされなくても、積極的に説法をする自問自説といわれる経典)・ニダ-ナ(やってはならないことを集約して、それを戒律の形にまとめた経典)

7ハダ-ナ(譬え話の形で世界の様々の出来事を説く経典)・イティヴリタカ(如是という文言で始まる経典ともいい、過去における様々の出来事を説く経典)・ジヤ-タカ(仏道修行者が過去においてがどのような行いをしたかを説いた経典)・10ヴァイプルヤ(この世界がいかに広く大きいかという事を説いた経典)・11アドブタ、ダルマ(世界に未だかつてなかったような、奇跡に類するような出来事を説いた経典)・12ウパデシヤ( 様々の世界の問題について、様々の角度から論議した経典)

この様な十二種類の経典というものも、それがまさに仏道の完成された姿を意味するものである。そして人々を喜ばせるために十二部の経典がつくられたのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
十二分経の3ヴイヤ-カラニヤ(授記――釈尊が弟子に対してお前は将来仏になるであろうと書き記した経典)なんですが、授記というのは長い未来世に仏になるという事でございますね。それと道元禅師が言われるように、修行をしていれば坐った時にすぐ仏(真実を得た人)になる。そうすると授記と、こういうすぐ仏だという関係はどういうふうに…。

先生
これは、人間というのは約束をされるという事が非常に励みになるという問題があるわけですね。ですから経典の中では誰々は将来仏になるというふうな約束の例がたくさん出てきておるわけですね。ですからそういう点では、我々が坐禅をすることによってすぐ仏の状態になるという事が道元禅師の考え方でありますと同時に、そういう修行を積み重ねることによって人間として完成されるといういふうな考え方も同時にあるわけであります。

そうすると、確かに坐禅をしてすぐ仏になったという事ではありますけれども、それが積み重なって完全なものになるという事について、将来お前はそういう状態になるぞという事を約束されたというのが授記と、そういうふうに見ていいと思います。

質問
仏道の本筋を勉強していきますと、やっぱり一般社会にあんまり受け入れられない理解の仕方、行動を示すようなきらいがあるので、そういう事までよく自分で承知して行動しないと、うまく適用とか適合とかしなくなるきらいもあるんじゃないですか。

先生
いや、そういう事はないんですよ。というのはね、どんな人間社会でも宇宙の中の一部なんですよ。ですから宇宙の原則がわかっておると、どんな人間社会のどんなつまらない動きも全部読めるんですよ。仏道を勉強することの意味の一つはこれなんです。人間が我利我利の立場で金儲けに血道を上げていても、仏道が身についているとそれらの人々がどんな原則で動いているかが、見え見えに見えるんですよ。それが仏道の意味なんです。

だからそういう点では、仏道の立場を基準にして日常生活を生きていけば、自分の意思を主張しながら人とぶつからないという境地があるんです。これは非常に狭い幅の動きですけれども、そういう厳密な、非常に狭い範囲の動きをするためにやるのが仏道修行なんです。自分の意思を通しておきながら、周囲と摩擦を起こさないというのが仏道ですよ。それを狙わないと仏道修行の意味がないと、こういう事があると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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