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正法眼蔵 仏教 22

六波羅蜜の中にも、その他六種類の波羅蜜というものが存在するわけであるから、六・六・三十六の真実に到達する手段が現実にあるはずである。。我々の日常生活というものは、様々の問題に絡まれ束縛されておりながら、しかも現在の瞬間においてすでに真実と一体になっている、まさに真実の世界に到来したといわれるのである。

西嶋先生解説 
これが仏道というものの一つの非常に特徴的な思想で、我々は普通常識的には、我々は力が弱くてなかなか真実に到達出来ない、いくら努力しても駄目だという考え方を持っていると同時に、もう一つはどうせ駄目なんだから真実なんてものはどうでもいい、楽しく遊んで暮らせばいいと言う考え方もあるけれども、仏道では一所懸命にやっておりさえすればもう真実と一つになっている、一所懸命やっていること自体が大切なんで、一所懸命やっておりさえすれば結果がどうなるなんてことはどうでもいい、一所懸命にやっていること自体が人生の目的であると言う考え方をする。真実に向かって一所懸命努力している事が、まさに真実の世界にすでに到達したと言う事実でもある。

本文に戻ります。
真実の世界が逃げて行ったとかやって来たとか、そういう形のものではないけれども、真実に到達すると言う事は常にいつでも現実のものとなるのである。我々の住んでいる世界は、すでに真実が目の前にあるという世界である。長年の修行をしてやっと真実の世界に到達すると考えてはならない。長年坐禅をしていたら、そのうちに悟りが開けてくると言うことではなくて、いま坐禅をするならば、その瞬間に真実と自分とが一体になる。

真実の世界の中でしか我々は修行というものが出来ない。修行をやっているという状態は、すでに真実の世界の中にあるという事に他ならない。修行さえすればその瞬間から真実は我々のものとなる。この修行というものは、実際にやりさえするならば、例外なしにこの宇宙のすべてが現実のものとなるという力を、その修行というもののの中には欠けることなく具えているものであるから。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生の仏教というのは仏道で、日蓮宗とか浄土宗とかは除外してあるんですか。

先生
というよりもね、私は日蓮宗も浄土宗の思想も勉強したことがないから、日蓮宗の説くところ、浄土宗の説くところが仏道であるならば、私に言っている事と同じになるとこういう見方です。ただ自分自身は日蓮宗とか浄土宗を勉強していないから、一致しているか一致していないかはまだわからないと、そういう事が私の現在の立場です。

質問
いま私が申し上げたのは、これ(先生の講義)が印刷されますが、その時に先生のおっしゃる仏教というものは、先生の理解する仏教で、理解できない仏教と称しているものは別ではありませんか・・・。余分なことを聞くようですけど・・・。

先生
うん、その点では「仏教」という看板を掲げていても仏教思想ではない考え方はいくらでもあるという事、これは言えると思います。それから政治権力と仏教との関係ですけれども、政治権力から影響を受けるような仏教は仏教でなくなるという事情があると思います。というのは、仏道というのは政治権力を乗り越えてその上にあるものです。

だから政治権力を指導する立場にはありますけれども、政治権力の助けを借りて発展するという形のものではないというのが本当の意味の仏道だと、こういう関係にあると思います。だから、歴史的事実として確かに政治権力者の理解によって仏道が盛んになったではないかという、そういう歴史的事実はありますけれども、そういう政治的な庇護を受けた段階から仏道は仏道でないものに変化していくと、そういう危険も同時にはらんでいるという事があると思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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