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正法眼蔵 仏教 21

真実に到達するための六つの方途「六波羅蜜」とは、1布施波羅蜜・2持戒波羅蜜・3忍耐波羅蜜・4精進波羅蜜 ・5禅定波羅蜜・6般若波羅蜜を言う。これらはいずれも最高の真実そのものである。

※西嶋先生解説
1布施波羅蜜とは、人に何かあげたから、それがいい結果をもたらすという事ではなしに、人に何かを与えようというふうな心のゆとりというものが人間の普通の状態。だからそういう普通の状態に自分の身、気持ちがある。2持戒波羅蜜とは、仏教には様々の戒律があるわけでありますが、その戒律から外に飛び出さない。3忍耐波羅蜜とは、様々の事を辛抱する。4精進波羅蜜とは、人間は怠けたいという気持ちも勿論あるわけだけれども、怠けたいという気持ちを出さずに一所懸命努力する。5禅定波羅蜜とは、坐禅をすることによって心身の安定を保つ。6般若波羅蜜とは、坐禅をする事によって正しい智慧を保つ。

本文に戻ります。
それらは、行いをするという事が直ちに最高の真実と全く一つのものになるのであって、生起したり消滅したりするものでないとか、作為があるとかないとかというような議論の段階での話ではなく、論議を超越した行いそのものが真実そのものという関係である。

そしてこの六波羅蜜を考える場合には、必ずしも1布施波羅蜜が最初で、6般若波羅蜜が最後だと無理に決める必要はない。経典にいわれているところによると「頭が活発に動く仏道修行者は正しい智慧というものを一番最初に修行して、一番最後に人に物をあげるという修行に終わるという事があるし、必ずしも頭脳明晰でない仏道修行者は、一番最初に人に物を与えるという修行から初めて、一番最後に正しい智慧というものを身につける。しかしながら忍耐波羅蜜や禅定波羅蜜が最初の場合もあろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
一所懸命という事になりますと、命がけという事ですね。そうすると、我々が仕事をやってても果てしない泥沼へ入っていくみたいな気持ちになることがあるわけですね。だからその場合「一所懸命」という言葉を「一行三昧」という言葉に置き換えて仕事をしてみる、そうすれば自分で納得できるんじゃないかというようなことを考えるんですが、そういう考え方はどうなんでしょうか。

先生
そういう理解の仕方でいいと思います。ただ、いま言われたことの中で、事態をよく見て引き返すというのも一所懸命の一つの形ですよね。何かやっていた。どんどん進んでいくうちに「これはいかんぞ」と感じたら、一所懸命逆戻りするという行き方も必要だということ、これはあると思います。

で、とにかく一所懸命がいいんだからという事で、環境がどうなろうと、前へ前へと進むしか手がないんだという事では一所懸命のうちに入らない。傍でどんなに批判しようとこれは戻らなきゃならんと思ったら、否応なしに戻るという場面が人生にはありますよね。だからそういう問題も含めて一所懸命という事にならざるを得ない。

質問
きわめて大事なことだと思ますね。どじょうの砂潜りという事があるけれども、それじゃいかんわけですね。

先生
うん。だからそういう点では、「傍がどう見ているか」という事を考えて動いているうちは、一所懸命とは言えないという事があるわけです。ところが大抵は傍がどう見ているかを考えてやるんですよね。「人がどう思っているか」というようなことばかり気にして動くというのは大体の人情です。

質問
登山家なんかにはきわめて大事な教えですね。

先生
ただその点になると、やっぱりそれぞれの一芸に秀でるというふうなことは、とてつもない人生修行ですよ。スポ-ツであれ、芸術であれ、学問であれ、一つの道を究めるという事は並大抵の努力、並大抵の積み重ねではできないことでね。だからそういう点では、山登りだから、遊びだからどうこうというような形ではなかなか批判が出来ない問題があると思います。その点では、きわめて卑近な我々自身の人生もそれぞれに非常に貴重な経験があるんだし、非常に貴重な意味があるんだという事も言えますけどね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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