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正法眼蔵 仏教 20

三番目の仏教徒のあり方は菩薩乗。この菩薩乗というのは、六種類の真実に到達するための教え、行い、体験を通して、最高にして均衡のとれた正しい真実というものを成就するという行き方である。その最高で均衡のとれた正しい真実というものを成就する行き方はどういうことかというと、意識的に何かを一所懸命やってつくり上げると言う事ではない。何もしないでのんびりしている事でもない。

それは今、瞬間的に始まったと言う事でもなければ、新しく今までなかったものをつくりあげるという事でもない。無限の過去からもうすでにでき上がっていたという事でもなければ、本来の自分自身に具わっていた行いという事でもない。作為のない自然な行為という事でもない。

※西嶋先生解説
ここでなぜ「ない、ない・・・」と言っているかというと、菩薩乗の行いというのは、与えられた現在の瞬間において一所懸命に生きていくだけのものだ。だから哲学的な論議で、それが本来あるものだとか、いま始まったものだとかというふうな様々な種類に区分してどれが正しい、どれが間違っているという風な、そういう理屈ではなしに、現在我々が与えられた瞬間というものを一所懸命にやっていくというのが菩薩乗であり、その一所懸命やっていくという事が、最高にして均衡のとれた正しい真実というものを達成していくという事実そのものである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今日も一所懸命という先生の言葉が出てまいりまして、私、それに非常にこだわるんであります。これは聞きようによっては非常に危険な言葉でありまして・・・・。一所懸命やっていい事と一所懸命やってはいけない事があると思うんであります。

先生
動機がどうこうという事を考えにおかなくても、一所懸命やっていることには意味がある。

質問 
それがわからないんだな。

先生
それで、一所懸命にやっている状態というのは、否応なしに極端から逆戻りするという事でもある。自動的に自分自身を守るという状態が一所懸命の行いの中から出てくると言う問題があるわけですね。西洋流の思想ではわりあいこういう考え方がないんですよ。つまり西洋流の思想で言うと、人間の行いの善悪というのは動機で決まる。いい方向にあるか悪い方向にあるかという問題をかなり重要視するわけですがね。

仏教では、間違っていようと間違っていなかろうと、とにかく一所懸命にやることには意味があるし、一所懸命にやっておる行いには間違いの起きるはずがない。仮に間違いであったとしても、それはそれなりの意味があり価値があるとそういう考え方をするわけです。だからそれは○○さんなんかのお考えからすると、やや危険思想に類するというふうな理解の仕方もあるかもしれませんけどね。

仏教ではとにかく一所懸命やっていることに比較できるような価値はないんだと、そういう考え方がありますね。だから理性的な考え方というよりも、むしろ行いそのものを非常に重視する考え方ですね。そのことはどういうことかというと、第三者的な立場で眺めているという事が人生なのではなくて、自分自身が泥をかぶって一所懸命やることが人生だという考え方でもある。いいか悪いかという事は、プ-ルの外で眺めておる場合には論議できることかもしれないけれども、ドボンと飛び込んでレ-スの形で一所懸命泳いでおれば、自分の泳ぎがいいか悪いかなんて言う事は考えちゃいられない。もうとにかく一所懸命やるしかないというのが人生だと、そういう見方がありますね。

だから先ほどのところで「作為があるとか作為がない」というふうな言葉が出てくるのは、とにかく一所懸命やっていることに意味があるんであって「作為があるとか作為がない」というふうな論議を超越した問題が、我々の行いの中にはあるという、行いというものに対する徹底した信仰というものが仏教思想の中にはあると思います。だからそのことを「一所懸命」という言葉で私は表わすわけです。

一所懸命にやっていることには傍から批判はできないんですよ。はたから余裕があれば「あんな馬鹿なことをやってる」というような批判が出来ますけれども、各人の人生はもう一所懸命にやるしかないんであってね。はたから眺めて、人の人生はどうこうなんて言う事を批判している余裕はないんで、各人が自分の与えられた瞬間というものを一所懸命生きる以外に生き方はないという問題が、具体的な人生の問題としてあるわけですよね。そういう事と関係があると思います。

※私の独り言。
「悪いことをしなさいと聞こえる教えは仏教ではない」という「巻」もあります。「正法眼蔵全巻」を読み坐禅をしていると、先生の言っていることがよく理解できます。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。

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