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正法眼蔵 仏教 19

銘記せよ。我々は十二因縁と言う形で、無明・行・識・名色というような十二の対象を持っているけれども、その一番最初の無明(何が何だかハッキリしない混沌とした状態)と言うものも、自分自身の現在における心と言うもの以外にはありえないし、それに続く行・識と言う対象もまた、自分自身の現在の瞬間における心のあり方と言うものに他ならない。

現在の瞬間における無明というものが、実は自分自身の心そのものであって、それは消滅するもの、問題にならないものと考えれば、必ずしも無視できない事はないと言えると同時に、無明というものが無視できるのであるならば行・識と言う対象も、あるいは十二因縁すべても無視する事ができる。

十二因縁の無明が、混沌とした状態のまま静かな落ち着いた状態を呈しているならば、行・識等というものも同じ様に静かな状態で波乱のない姿をそのまま現わしている。我々の日常生活は何かが起こったとか何かが消滅したとかと言ってみても、それらは瞬間瞬間の変化でしかないのであるから、無明も行も識も一心であると言い、またその他十二因縁の全てがないものと考えれば、ないという判定の仕方もできるし、また我々を取り巻く一切の環境、十二因縁のすべてが究めて平静な安定した状態だと言う事もできる。十二因縁の最初の無明も単に言葉としての一つでしかない。意識とか名色とか言う言葉もあるけれども、それらもまた言葉に過ぎないと言う捉え方も出来る。

銘記せよ。混沌・行為・・・等々は、たとえば青原行思禅師が石頭希遷禅師に対して「自分は弟子を鍛えるだけの十分な力量を持っている、だから今後もお前はわしと一緒にこの山住んでいてはどうか」と言ったような情景を言うのである。また、混沌・行為・意識・・・等々は、石頭希遷禅師が南嶽懐譲禅師の所から帰ってきて「自分は和尚から許しを得て、南嶽懐譲禅師のもとに行って、自分自身を訓育するに足るだけのしっかりした手段(斧)をもらって帰ってきました」と言われたという物語があるが、そのような実践的な修行関係と別のものではない。

※西嶋先生解説
縁覚乗というのは、普通は、感覚的な外界の刺激を受け入れて仏道修行をするという事を指すわけでありますが、道元禅師のお立場から見ると、その外界の刺激を受け入れて仏道修行をするという縁覚乗の立場といえども、青原行思禅師、石頭希遷禅師、南嶽懐譲禅師の間で行われたような実践的な仏道修行と実質的には変わりがない、と言う事をここでは述べられておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―
                           --つづき

「仏」と言うのはどういう人か。やはり「仏」も勿論ものを考える。それからご飯も食べなきゃならん、風呂も入らなきゃならんと言う問題も当然ある訳です。ただ「凡夫」と違うのは、思考と感覚の間に坐禅がある。坐禅の本質は何かと言うと「行い」と言う事。だから一日のうちに僅かでも坐禅をする時間がある人は、坐禅を中心にしてものを考えられる様になる。

自分が坐禅の経験の中でしっかりと根を下ろして、そういう立場からものを考えたり、美味しいものを食べたり、音楽を聴いたりと言う事をやるようになる。そうすると、生活全体がこの坐禅の境地と言うものを中心にして行われる様になる。「凡夫」と「仏」との違いは、どう言う事かと言うと「凡夫」の場合は中心点の坐禅がないから、考え方が考えを生んで頭の中だけでは無限に色々な考え方が発展する。

そういう発展した考え方と言うものは、現実に当てはめて合うかと言うと大抵は合わない。人間は大体ものを考える事に対する信仰があるから、自分の頭で考えた事が絶対に正しいと思っている。だから、自分の考えた事と一つにならない現実は「現実の方が間違っている」と言うふうな事を言う。我々が生きているのは現実の世界。だから自分の考えた事がいつも正しいとは限らない。そういう場合に、こういう坐禅と言う中心を持っている人は、この中心を基準にして問題を考えるから、考える事がいつも現実的でその様な夢みたいな事は考えないわけです。

また、ものを味わうにしても、感覚的なものに溺れてしまわないと言う面がある訳です。そして、いつも自分を中心にして「楽しむ程度」という事が失われない。感覚的な喜びも、自分が楽しむ事を通り越して突き進む場合が非常に多い。その例では、酒を飲んだ場合などには割合にブレ-キがきかなくなると言う問題があるわけです。そうすると、たとえば道路に突っ伏して寝ている人を見ると、傍から見て非常に気の毒だ。本人はこれが最高の人生の楽しみだと思っているのかもしれないが、傍から見るとかなり惨めな感じがすると言う事もあるわけです。

文明がだんだん進んできますと、人間というのは大体「凡夫」の生き方になるわけです。文明はものを考えるという事を基礎に待っておりますから、思考と感覚の二つの世界を行ったり来たりする。釈尊は、こういう二つの世界を行ったり来たりしている人々を見て気の毒に思った。何とかその状態から人間を救い出そうという事で、我々に勧められたのが坐禅。こう言う事がいえようかと思うわけです。
  
だからそう言う点では「凡夫」とは坐禅をやらない人。「仏」とは坐禅をする人。そういう事が「凡夫」と言う言葉と「仏」と言う言葉との中身の違いだと、そういう事も「我田引水」の立場から言えるという事があるわけです。私が言うと「我田引水」に聞こえる訳ですが、いま申し上げた事は全く事実、我々の生活における疑問の余地のない事実だと言う事が言えるわけです。自分に中心を持ってゆっくり落ち着いた生活をするか、あるいは自分の中心を持たないであっちこっちと一所懸命に駆けずり回って、苦労していい結果が出るかよくわからんと言う形で一生を終わるかと言う違いでしかない。

釈尊は自分をしっかり把んで、自分として好ましい一生を送ると言う事は誰にでも出来ると言われた。苦労に苦労を重ねて、結果がいいか悪いかよくわからないうちに一生が終わってしまうと言う事を避けるために、釈尊は仏教と言う教えを残された。そう言う事がいえ様かと思うわけです。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅とは姿勢を正してきちんと坐ることである。 姿勢反射が働いて、交感神経と副交感神経とが同じになり、 考え過ぎからくる不満がなくなり、感じ過ぎからくる不安が消える。 実行力が生まれ、やりたいと思う事が直ぐできるようになり、 やりたくないと思う事はやめることが出来るようになる。 自分自身と宇宙とが一体となり最も幸福な人生を送ることが出来る。

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