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正法眼蔵 仏教 18

十二因縁をもう一回たどって見よう。一番最初に何が何だか分からない混沌(無明)がある。そこでとにかく行動(行)をする。その行動をする事によって人間の意識(識)と言うものが生まれる。その意識というものが生まれると同時に、外界の世界(名色)と言うものが見えてくる、あるいは聞こえてくる。そうして六種類の感覚器官(六入)と言うものが発達して、外界の刺激に触れる(触)

そうしてその刺激を受け入れる(受)。その刺激を受け入れると、それが好きだとか嫌いだとかと言う感情(愛)に成長する。好きだ嫌いだと言う感情が成長して来ると、それに従って自分のものにするという行動が行われ(取)自分のものになったと言う状態(有)が生まれる。その自分のものになったと言う状態を基礎にして、我々の生活(生)があり、その生活を通して歳を取る(老)あるいは死ぬ(死)と言う形が生まれて来る。

この様な十二種類の因果関係を基礎にして、我々が日常生活を実践していくのであるけれども、その行動は過去にも行われたし、現在においても行われているし、また未来にも行われるのであり、その行いについても、自分が主体となって行動する場面もあると同時に、外界の事物というものが客観となって我々の行動の対象となる、という相互関係があって、それらの両方が論ぜられる。

しかしながら、その一つ一つの原因・結果の関係というものを取り上げて、それを様々に論議する事が行われるけれども、結局のところはその様な論議を様々に尽くしてみても、我々の人生は、現在の瞬間における一瞬一瞬でしかないから、十二因縁と言う理論を取り上げて様々な論議をしてみても、人生問題の解決と言うものは決してその様な論議ではなくて、現在の瞬間においてどうするかと言う事に尽きる。

したってこの様な十二因縁の様々な論議と言うものも、結局は一切が必要ないと言う釈尊の教えに帰着する。この様な原因・結果に関する論議というものは、なるほど論議としては意味はあるけれども、我々の実際生活においては、すべて必要がないとも言える。



              ―西嶋先生の話―
               
仏教の中で使われる言葉に「凡夫」と言う言葉があるわけです。「凡夫」とはどういう意味かと言うと、普通の人と言う意味です。この「凡夫」に対する言葉が「仏」と言う言葉です。したがいまして今日はこの「凡夫」と言う言葉と、「仏」と言う言葉とが中身がどう違うかと言う話をしてみたいと思います。

「凡夫」と言うのは何かと言いますと、普通の人、ごく当たり前な人と言う意味です。 「仏」と言うのは何かと言いますと、たとえば臨斉禅師などは「無位の真人」と言う言葉を使われております。「無位の真人」とは、無位とは人間が決めた位ではない、天地自然の位と言う意味で、そう言う立場から見た本当の人間というのが仏と言う言葉です。「凡夫」と「仏」とがどう違うかと言う問題ですが、まず「凡夫」について申し上げてみます。

「凡夫」とは、二つの世界の中を行ったり来たりする人と言う意味があると思います。二つの世界と言うのは何かと言うと、一つはものを考える世界。我々は朝起きると、ものを考え始めて、ご飯を食べる時にも、仕事をする時にも、夜家に帰ってからも絶えず考えているという習慣がついている訳です。考える事は決して悪い事ではない訳ですが、えてして考え過ぎるという問題があるわけです。で、この考えすぎる世界から人間は抜け出す工夫を知っているわけです。

二つには感覚の世界。たとえば我々はものを食べている時には比較的ものを考える事から開放されて、舌でおいしい味を味わっていると言う事がある。そういう感覚的にいろんな刺激を受けると言う事が、頭の中でいろんな事を考えると言う事から切り離されるという事の原因になっているわけです。そうすると我々は一日のうちで、ものを考えたり、あるいは感覚的な刺激を味わったりと言う二つの時間の間を行ったり来たりしている。こう言う生き方をしている人を普通の人「凡夫」と言うわけです。 
  
だから凡夫の生活は非常に不安定。朝起きてから色々と心配事を考える。あるいはかつてやった自分の失敗を後悔する。あるいはまだ来ない将来「ああしよう、こうしよう」と考える。そうして考える事に疲れると感覚的な刺激を求める。だから感覚的な刺激を求める事が頭を休める一つの手段になっている訳です。昼間仕事をしている場合にはその間ずうっと頭を使う。そうすると夜になると夏であれば、冷えたビ-ルで一杯グッと飲む。「いや、これは素晴らしい、これくらい人生において楽しい事はない」と思う。それはなぜかと言うと、考える事から抜け出せるから。 

朝から晩までグズグズ考えていたのがスッとそこで一度断ち切られるから、これこそ本当の人生だと感じるわけです。体の中にアルコ-ルが入って、濃度が高まっていくとだんだんエキサイトしてくる。そうすると普段やらない様な事を平気でやるようになる。他所の看板を蹴飛ばしてみたり、喧嘩をしてみたり、普段無口の人がペラペラと人が変わったように話したりする。そしていよいよ疲れたという事で家に帰って寝る。朝は決して寝起きはよくないんだけれども、とにかく朝起きて眠い眼をこすって一所懸命勤めに出て行く。
こういう事をしていると、常に思考の世界と感覚の世界を行ったり来たりしている訳です。こういう生活をしている人を「凡夫」と言う、普通の人。
  
だからこういう生活と言うのはそう楽しいものではない。人生を本当に楽しめるかと言うと中々楽しめない。忙しい思いをしたかと思うと、今度は一所懸命に休まなければならん。休んだと思うとまた忙しい思いをしなければならんという事で、何のために生きているのかよくわからん、とこういう問題があるわけです。
                          つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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