トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏教 17

二番目の仏教徒のあり方は縁覚乗。縁覚乗というのは、客観世界(外界)の刺激を感覚を通して受け入れて、それによって仏道を勉強していく行き方である。もっと具体的に言うと、我々の住んでいる世界は、十二種類の原因・結果の関係で成り立っているのであるけれども、その十二種類の原因・結果の関係を勉強することによって、究極において平安な境地に達するということである。

では十二因縁とはどういうものかというと1・無明(何が何だかよく分からない混沌とした状態)2・(混沌とした状態においてとにかく盲目的に行動する)3・意識(行動する事によって心(意識)が生まれる)4・名色(外界の世界を見たり、手に触って感じたりして刺激として受け入れる)5・六入(その様な外界の刺激を六種類の眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)・意(感覚の中枢)の感覚器官を通して受け入れる)
 
6・(そのような器官を通して外界の刺激を受け入れて、その刺激に接触すること)7・(その接触によって外界の刺激を受け入れる)8・(外界の刺激を受け入れた事によって、それが好ましいとか好ましくないとかと言う形で感情を刺激し、感情でそれについて好悪が生まれてくる)9・(愛が生まれてくると、それを自分のものにするという行動が行われる)10・(自分のもの、他人のものと言う所有と言う関係が生まれる)11・(自分が物を持っているという状態が生まれると、それを基礎にして人生を生きると言う事実が行われる)12・老死(その人生を生きる(生)という事実が行われると、一番最後の段階として年を取ったり、死んだりという段階に至る)



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏教は現実をそのまま受け入れると言う考え方ですよね。そうすると、今の不満を何とか満たしていくと言う態度はよくないんですか。

先生
「現実を求めていく」というのが仏教の教えです。全ての宗教がそういう態度かと言うと、そういう態度でないのが普通の宗教です。キリスト教などでは、現実をそのまま認めるというのを非常に嫌うわけです。理想の世界、神の支配する世界があって、その神の教えに従って現実を切り換えていく、つまり直していくと言うのがキリスト教徒の任務だと、こういう考え方を取るわけです。

質問
そうすると不足をそのまま感じる能力が付けばいいんだけれども、すごく難しい事で、現状を変えていく方法も私たち人間はしていると思うんですよね、そういうのはよくないんですか。

先生
そこで時間との関係が出てくるわけです。いわゆる理想を求めて現状を直そうとする考え方は将来に期待をつなぐんです。「今は駄目だけれども、そのうちによくしよう」と、こういう考え方をするわけです。仏教の立場は将来の問題ではない、いま自分が何をするかが問題だという事です。だから、決して今の状態がよくなる事を諦める訳ではない。

人間がやり得る努力と言うのは何かと言うならば「現在の瞬間において努力して、瞬間瞬間にほんのちょっとでもよくなるしか現実の問題としてはありえないんだ」と言う考え方をするわけです。だから夢の様な事を頭において「こうなりたい、ああなりたい、こうすべきだ、ああすべきだ」という事で「そのうち頑張ります」という事では、人生の生き方としては正しくないと言うのが仏教の主張です。

将来どうしますという事が問題ではなくて、いま一所懸命やっていますと言う事でしかない。いま一所懸命やっていますという事は、そう大した事は出来ないんですよ。地獄が天国に変わる様な大した変化は出てこない。ほんの一歩ずつ僅かの改善に努力すると言うだけの事だけど、人間にはそれしか出来ないと釈尊は言っておられるのです。だから、そういう僅かな努力を現在の瞬間でコツコツ積み上げていく以外に我々の人生はない、と言うのが釈尊の教えです。

現状がいつまでも今のままでいいんだと言う主張ではなしに、理想も勿論もつが、こうなければならん、ああなければならんと言う考え方も持つわけだけど、何が我々に出来るかと言うならば、現在の瞬間をコツコツと生きていく以外に人間の生き方はあり得ないんだと、こういう考え方です。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


         
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-