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正法眼蔵 仏教 15

三乗十二分教には非常に沢山の内容がある。その中の一端をこれから述べてみよう。三乗とは(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の三種類を言う。

その最初に出てくるのが声聞乗。声聞乗とはどういう仏道修行の方法かというと、理論を通して哲学的に仏教を勉強していくいき方である。その中心というのは四諦論になる。四つの考え方を基礎にして仏道を勉強し、真実を得る事に努力をする修行方法である。四諦とは何かというと、苦諦・集諦・滅諦・道諦である。

※西嶋先生解説
苦諦というのは、今日の言葉で言えば、理想を中心とした考え方という事になるわけであります。なぜ理想を中心にした考え方が苦諦かと言いますと、我々は普通、こうしたい、ああしたいという理想というものを持っておるわけであります。その理想を実現しようとして努力するわけでありますが、理想というものと現実というものとは常に食い違っておるという事実があるわけであります。

ですから我々が現実の世界において理想を達成しようとすると、常に様々の障害があって、中々理想の境涯には到達し得ない。したがって、我々が目的に到達し得ない、思い通りにならないという事で、苦しむという事の一つの原因は、我々が理想というものを頭に描いて、現実との食い違いを認識しないで、人間の生き方を決めるというところにあるという事情から、理想を基準にした考え方を古代インドにおいては苦諦という表現で表したというふうに見られるわけであります。

集諦というのは何かといいますと、集合という事で、何の集合かというと物質の集合という事になるわけであります。我々の住んでいる世界というものは、理想という面からも眺めることができますけれども、逆の面からするならば、単なる物の集まりでしかないというふうな見方も同時にできるわけであります。こういう見方からすると、人間と言ってみたって体細胞の集まりで、血管が通っていて血液が流れておる、息をすることによって酸素が血液の中に流れ込んで、それが脳細胞の方に行って脳の活躍を促す。

結局は物の塊でしかないという考え方もあるわけであります。そういう考え方が集諦という考え方。こういう考え方も非常に大切な考え方で、今日われわれは西洋文明の恩恵に浴しておるわけでありますが、その西洋文明の基礎を担う一つの考え方、自然科学的な考え方と言うものが、集諦という考え方と同じ基礎にあるという理解もできるわけであります。

滅諦というのは、理想というものだけを中心にして考えれば、我々の人生は苦しくてしょうがない。そうかといって、物の集まりだというふうに考えてしまうと、何のために生きているんだかわからなくなる、一方われわれの日常生活を見つめるならば、「今何をしなきゃならん」というふうな、具体的な現実の問題が、いつも我々の頭上にのしかかっておる。

だから我々の人生というものを考えていく場合に、夢のようなことを考えているわけにもいかないし、そうかといって投げ出してしまうわけにもいかない、今与えられた境遇でいかに一所懸命やっていくかという事に尽きるという事が、滅諦という立場の主張であります。その点では、理想というものも、現在の瞬間においては何処かへ消えていってしまう。それから「この世の中の基礎は物質だ」といってみても「いま何をやるか」と言う問題では、そんな考え方もどっかへ行ってしまう。いまの一瞬一瞬をいかに生きるかと言うことだけが問題になってしまう。そう言う考え方が滅諦であります。

道諦というのは、苦諦・集諦・滅諦と言ってみても、所詮は考え方の問題であり、理屈でしかない。我々が日常生活において具体的に生きていくためには、間違いばかり起こしていたのでは何にもならない。そうすると我々の日常生活、滅諦の生き方の中で、あれこれと苦労をしていく際に、それが間違いのないものでなければならない。間違いのない日常生活と言うものが道諦と言う考え方の基礎であります。

だから仏道修行の最終の段階は、日常生活をコツコツとやりながら、しかも間違いに陥らないと言う事が道諦と言う考え方の主張であります。釈尊は人生問題を考えていかれる場合に、常にこの四種類の考え方を基礎において問題を考えられた。その様な形で、哲学的な論議を通して仏教を勉強していくと言う考え方が声聞乗の立場であると、ここで道元禅師が解説しておられる訳であります。



          ―西嶋先生の話―

私は宗教と言うものには、その中心となる二つの要素があると思う。一つは、何らかの考え方を正しいものとして信ずると言う事。もう一つは、自分が正しいものとして信じた考え方に従って自分の行動を律すると言う事です。すなわち、宗教と言うものに具わる内容の一つは、何らかの考え方に対する信仰であり、もう一つは、正しいと信じた考え方による自分自身の行動の規律であります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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