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正法眼蔵 仏教 10

この様な理由から、昔から今に至るまで、釈尊の説かれた教えにおける真実を学ぶ人々は、いずれも今まで行われてきたところの様々の仏教に関する教えというものの、どれが正しくどれが間違っているかを選択して判断するには、例外なしに釈尊並びに釈尊と同じ様に真実を得られた方々に学んでいるのである。その判断と言うものを他の人々に問うという事はない。

したがって、釈尊なり釈尊と同じ境地に達せられた方々の正しい判断というものをまだ得ていない場合には、いまだ仏教上正しい判断を得たと言う事にならない。そこで、自分たちが根拠にしている教えと言うものが正しいか正しくないかを決めようと思うならば、その基準を釈尊並びにその系統を引き継いだ方々に求めるべきである。なぜならば、尊釈の説かれたところの教えの一切における本源的な主人は疑いもなく釈尊ご自身であるから。

仏教においては、(存在する)(存在しない)(存在しているとも、存在していないとも言い切れない)(現実に存在する物質)と言うふうな様々な言葉があるけれども、この様な言葉のいずれも、釈尊ご自身並びにそれと同じ境地に達した方々だけがこれをはっきりと理解され、正しく伝承して来て、その結果、過去における真実を得られた人となり、また現在において真実を得られた人となり得ているのである。

したがって、この様な仏教上の問題にしても、その基準というものは釈尊ご自身並びにそれと同じ境地に達した方々の判断に従って考えていくべきである。



               ―西嶋先生の話―

私は若い頃、仏教と言うものを考えた場合に、仏教も一つの宗教であるから「勉強したいと思う人が、勉強すればいいんだ」とそう言うふうに思っていたわけです。それから坐禅も「やってみようと言う気を起こした人だけがやればいいんだ」と考えておりましたが、最近どうもそういう考え方ではなくなって来たと言う問題があります。
  
それはどう言う事かと言うと、どうも人間として生まれた以上、仏教と言うものを勉強しないと「なぜ生きているのか」と言う問題がよくわからない。そして「なぜ生きているのか」と言う人生の意味がよく分らないという問題がどうもある様な気がします。また、坐禅をやる事によってやっと人間並みになれる。だから人間並みの生活をするためには「どうしても坐禅をやらなきゃならん」という気がするわけです。

こう言う事を言うと、この世の中には坐禅をやらない人も沢山いる。坐禅をやっている人と坐禅をやっていない人との人数を比べると、やっていない人の方がはるかに多い。そう言う人たちも、やっぱり人間として立派に生きているじゃないか、と言う疑問がわくわけですが、坐禅をやらないで本当の人間らしい生き方が出来るかと言うと、どうも私は疑問のような気がする。自分自身の事を振り返ってみると、やっぱり朝晩坐禅をやっているお陰で、まあ人間らしい生活が出来ているという事があるんじゃないか。

私がもし毎日坐禅をやる事をやめてしまったならば、西嶋と言う電車はどこへ走って行くか分らない。西島と言う車はどこへ走っていくか分らない。どんなところへ行って、溝に落ちるか、コンクリ-トの壁にぶつかるか、どういう事が起きるかというような事がまったく想像つかない。

朝晩坐禅をやっているから、まあまあ「こうしなきゃならん、ああしなきゃならん」と言う事が多少見えてくるだけのもの。そうすると人間と言うのは、非常に危なっかしいもの。その危なっかしい人間を、何とか間違いを起こさずに運転していけるのは全く坐禅のお陰だ。だから、私から坐禅をはずしてしまうと何も残らない。そう言う気がする訳です。

※私の独り言。
坐禅を始めたのは50歳になる頃、それまでは六道輪廻という六つの境涯を行ったり来たり。「坐禅は、何のためにするかと言うと、六道輪廻から抜け出すためです」という西嶋先生の話を聞き、とにかく坐りました。そして今、人間らしい生活を何とかやっていけるのは、坐禅のお陰だと・・・。これからも坐禅を頼りに暮らします。

六道輪廻(私たち普通の人間が日常生活の中で次々に経ていく境涯)
1・地獄(思い通りにならないという事で苦しんでいる状態)2・餓鬼(あれも欲しいこれが欲しいという事で、いつも欲望に悩まされて焦っている状態)3・畜生(自分の欲しいものを何とかして得ようと、はたの迷惑も構わず人を傷つけることも自分を傷つける事も構わずに、とにかく欲望を達成しようと恥も外聞もなく欲しいものを得ようとする状態)4・阿修羅(畜生の状態が高じて気持ちが荒れて暴れまわる状態)5・人間(暴れまわると、エネルギ-が発散されて少しは人並みになってくる状態)6・天上(人並みになると人間はすぐ自惚れて自分は神様だと思う)

※自惚れが原因でまた地獄に逆戻りするという、六つ境涯を日常生活の中で繰り返していく。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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