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正法眼蔵 仏教 9

本文に入る前に西嶋先生の話です。
道元禅師は仏教に関する限り、実行ということ、実践ということ、修行ということが非常に大切ではあるけれども、そうかと言って、経典に表わされた教えというものを全く捨て去ると言うふうな考え方は誤りだ。文字による勉強も大切だし、実践による修行も大切だ。両方が兼ね備わったところに仏道修行があるという主張をされているわけであります。その点では、この仏教という思想は、単に抽象的な教えというものを軽視する考え方もあるけれども、それは必ずしも正しくないと言うことを主張している「巻」ということになるわけであります。

本文に入ります。
摩訶迦葉尊者は言うまでもなく、釈尊の後継者として中心的な指導者である。釈尊の説かれた正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)というものを正しく伝承されて、釈尊の教えに従い、またそれを保持して来たところの人である。しかしながらのこの摩訶迦葉尊者に対し、釈尊の教えを抽象的な文字で正しく伝承されたはずがないと言うならば、釈尊の教えを学ぶ点においては偏った局限された見方であろう。摩訶迦葉尊者が釈尊の正統な後継者である以上、坐禅による修行も受け継がれたであろうけれども、それと同時に言葉による教えも正しく伝承されたはずである。

銘記せよ。師匠と弟子との間でたった一つの言葉を正しく伝承したという事が、宇宙全体を正しく伝承したことになる。たった一つの言葉を正しく伝承した場合には、我々が住んでいるこの世界の中における山というものが、川というものがどういう意味を持っているかという事を伝承することであり、この現実の世界における伝承というものを離れる事が出来ないのである。

このような意味からするならば、釈尊の説かれた正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)、すなわち最高の真実と言うものは、釈尊の正しい後継者である摩訶迦葉尊者に伝えられたのであり、摩訶迦葉尊者以外のところに抽象的な教えが伝承されたという事はないのである。摩訶迦葉尊者には、抽象的な教えも坐禅による実践も両方が伝承されたのである。



              ―西嶋先生の話―
       
今日は最初に人間の運、不運というものについて、仏教の立場からどう考えるかという事をちょっと申し述べておきたいと思います。結論的に申しますと、仏教の立場から言うならば、人間に運がいいとか運が悪いとかという事はないという事が言えるわけです。なぜそういう事が言えるかというと、仏教の基本的な一つの考え方は、原因・結果の考え方で一切を考えていくという立場があるわけです。原因・結果の関係とは、別の言葉でいうならば「善因善果、悪因悪果」という立場です。

つまりいいことをすればいい結果があるし、悪いことをすれば悪い結果があるという事が仏教の基本原則です。したがって、この考え方を別の言葉で表現しますと、あまり感じのいい言葉ではないわけですが「自業自得」という言葉がある。この「自業自得」という言葉は聞いてあまり感じのいい言葉ではありませんが、明らかに仏教思想から生まれた言葉です。その意味は、自分のやった事が全部自分に降りかかってくると言う主張です。ですから、人間が運がいいか運が悪いかという事は、結局自分が何をやったかによってすべてが決まるという事が仏教の基本的な考え方です。

事実、人の一生というものを眺めてみますと、本人にしかわからない実に複雑な紆余屈折があり波乱万丈のものだ、それがどんな人の人生にも必ずあると言う事が言えようかと思うわけです。ですからそういう立場から見ますと、人の一生について運が悪いとか運がいいとかという事をいうこと自体が、人生というものの理解について多少第三者的な立場から眺めているのではないか、むしろ自分自身が今どんな境遇に置かれ、今何をしなければならないかという事について真剣に取り組んでいる限り、運がいいとか悪いとかという事を言っている余裕がないと、そういう風な問題が誰の人生にもあるんじゃないかと感ずるわけです。

沢木老師がよく提唱の時に、ご自分のことを表現されて「わしもやっとたくり上がってここまで来た」と、こういう表現をされたわけです。人生とはたくるものだ、決して一筋縄の単純なものではないと、そういう事が誰の人生についても言えるわけで、そういう点では仏教の立場からしますならば、自分の現状というものは必ず自分が作っていると言わざるを得ないという事があろうかと思います。

この社会に生きている人というのは、誰でもが自分自身の与えられた境涯で精いっぱい生きている、それが人生。運がいいとか悪いとかという事は言えないという事が、仏教的な立場から見た人生の捉え方ではないかと、そういう気がするわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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